連載
神隠しの森 5
短いですが、取りあえず書いたところまで。
ラストシーンの2歩ほど前といったところでしょうか。
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ラストシーンの2歩ほど前といったところでしょうか。
何処とも知れぬ空間の中で、たゆたう闇の一部が不意に確かな質感を伴って盛り上がった。
周囲の闇から我が身を引き剥がそうとするかのようにそれは揺らぎ、ややあって内側からの圧力に屈したかのようにはらはらと闇が剥がれ落ち、再び周囲の闇に融け込んでいく。それと共に内側の存在も、その姿を明確にしつつあった。
質量を持った艶やかな闇が秀でた額を滑り落ち、揺らめく深緑の髪の流れの中に消えていく。
夢見るように閉ざされた瞼がゆっくりと上げられ、髪と同じく深緑に輝く瞳が現れた。
闇に未だ半身を浸しながら、少年はゆるりと眼を細めて周囲の闇を見はるかすかのように、頭(こうべ)を巡らせた。
形の良い唇の端が吊り上がり、くつりと幽かな笑い声が洩れる。
――結界を張ったか……
求めるものの姿を見出す事は出来なかったが、それもまた彼の想定の範囲内ではあった。
――そこまで執着するか……狗の仔よ……
揺らめく深緑の髪に闇が絡みつき、少年を再び己の内に取り込もうとする。それに逆らう事無く身を委ねながら、彼は再び満足げな笑みを浮かべた。
何も焦る必要は無いのだ。
全ては彼の望みのままに動いているのだから。
少年は静かに瞼を閉ざし、闇の中に己の身を沈めた。
「……邪見さま、これ苦ーい」
「我儘を言うでないっ。ちゃんと全部飲まんか!」
解毒の薬草を煎じた薬湯のあまりの苦さに、りんが顔を顰めるのを邪見が叱り付ける。
邪見が大急ぎで薬師の妖怪の許へ行って薬草を調達して戻ってみると、少女は主の毛皮に包(くる)まって眠っていた。どうやら、妖気については殺生丸の方で何らかの処置を施したらしく、りんの容態は少し落ち着いてはいたのだが、まだ本調子でない事は明らかだった。
主の無言の圧力に急き立てられるように、急いで薬草を煎じて薬湯を作り、りんを起こして渡したのだが、薬湯の苦さになかなか飲みこめないでいるらしい。助けを求めるようにりんが殺生丸を見上げるが、彼も黙ったまま薬湯を飲むように促すだけだった。
りんはじっと湯気を立てている椀を見ると、思い切ったように一息にそれを呷った。瞬間、口内に広がった苦味と鼻に抜ける独特の臭いに思わず吐き出しそうになるが、それを堪えて何とか飲み下す。
「……うぇぇ……きもちわるいよぅ……」
後味の悪さにぐずるりんに、邪見が竹筒の水を差し出す。それを受け取って、口の中を洗うようにして少しずつ飲むが、なかなか口の中に残った苦味は消えなかった。
「暫くは気持悪かろうが、我慢しろ。後はおとなしくしておれば、すぐに毒気は抜ける」
「……はぁい」
空になった竹筒を邪見に渡すと、再びもそもそと殺生丸の毛皮の中に潜り込む。眠っている所を起こされたためか、それとも薬湯の効果によるものなのか、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきて、邪見は漸く肩の力を抜いた。
りんが寝ている間に空の竹筒に水を入れてきてやろうと、その旨を主に告げて泉の方に向かいかけた邪見を殺生丸が呼び止める。
「……水は森の外で汲んで来い」
「は?」
殺生丸の言葉に邪見が間の抜けた声を洩らす。
「水場ならすぐそこに泉がありますが……」
竹筒を片手に指差す邪見に、殺生丸は無表情のままじろりと金色の視線を向けた。どんな叱責よりも雄弁なその眼に、邪見がびしっと固まって思わず半歩ほど後ずさってしまう。
りんが毛皮の中で眠っていなかったら、まず間違いなく森の外まで蹴り飛ばされていたであろう事を察した邪見の額に嫌な汗が浮かぶ。
「……は……はいっ、畏まりました! す、すぐに行ってまいりますっ!」
あたふたと阿吽の手綱を取って、ばたばたと駆け出した下僕が姿を消すのと同時に、殺生丸の知覚に漣(さざなみ)のような『声』が響いてきた。
(むだなのに)
(そんなことをしても、むだなのに)
(その子はもうこちらにいるのに)
(その子はこちらにきてるのに)
視界の隅を、すい、と小さな影が掠める。くすくすと笑う気配も伝わってきて、殺生丸は不快げに眉を寄せた。
木霊は特に害の無い、妖怪と言うより精霊に近い存在であるが、それゆえに厄介な存在であるとも言えた。中間的な存在であるために、強い力を持つ存在に干渉された場合、容易く聖にも邪にもなりうるからだ。
今はまだどちらつかずの状態であるようだが、味方になることは決してありえないと判っているだけに、殺生丸の苛立ちは募っていった。
己一人であるならば――少なくとも、脆弱な少女を連れている状態でさえなければ――、この場を立ち去るか、この森を叩き潰せば済む事だが、今の状況はそれを許すものではなかった。
あの少年がりんの名を――不完全な形ではあるが――手にしている以上、迂闊な行動を取る訳にはいかず、また殺生丸の高すぎる矜持が少年に背を向けることを良しとしなかったのだ。
毛皮の中でりんがころりと寝返りを打つ。殺生丸は宙に眼を据えたまま、僅かに意識をそちらに向けて少女を更にしっかりと包(くる)み直すように毛皮を動かした。
この毛皮は殺生丸の身体の一部であり、それに包まれるという事は彼の妖気に包まれるという事でもある。つまり毛皮の中にいる者は、ある種の結界の中にいる状態であるともいえるのだった。
(みえなくなった)
(あの子をかくした)
(かくしたかくした)
囃(はや)し立てるような舌足らずな幼い『声』と、微かな気配が周囲を取り囲むのを感じる。
(むだだよ)
(むだだよ)
(むだだよ)
(――無駄だよ)
幼い『声』の中に違う気配が混ざったのを感じて、殺生丸はそちらに視線を向けた。
木立ちの中にあの少年が佇んでいる。
深緑の髪がさわりと揺れ、整った面(おもて)には薄く笑みが浮かんでいた。
だが、殺生丸の表情には何の感情の色も現れはしなかった。
(その子はこちらのものだよ)
挑発するような言葉にも、冷徹な無表情が揺らぐ事は無く、ただ僅かに金色の双眸が細められ、立てた膝の上に置いていた手が下に動いただけであった。
(こちらがわのものだよ)
(こちらのものだよ)
(こちらの――……)
漣のように唱和していた『声』が不意に途切れる。
視界の隅を掠めていた小さな影がふっとかき消え、それと同時に佇んでいた少年の姿も陽炎のように揺らいだ。
殺生丸は無表情のまま地面についていた手を立てた膝の上に戻した。その鋭い爪の先は土で汚れており、先程まで手が置かれていた所の土は僅かに変色していた。
金色の双眸が見つめる先で、少年の姿は火に炙られた蝋の様にぐにゃりと歪み、幼い子供にも似た何かの姿がそれに一瞬重なって――消えた。
「……ふん」
面白くも無さそうにひとつ鼻を鳴らすと、殺生丸は静かに眼を閉じた。
水を汲んで戻ってきた邪見は、ふと妙な違和感を感じて眉を顰めた。
主は出かける前と同じ場所に腰を下ろしており、その毛皮に包まって眠っている少女にも何ら変わった様子はない。それにも拘らず邪見の妖怪としての知覚が、この場所が出かける前とは『何かが違う』と告げていた。
「……?」
疑問には思ったものの、殺生丸の雰囲気はとても質問を許すようなそれではなかったため、下僕の身としては口を噤んでいるしかなかった。
それに、自分でさえ感じ取れるような違和感に殺生丸が気づかない筈が無い。それなのに何も言わずにいるという事は、大した事ではないのだろうと邪見は結論付けた。
それが些か的を外していた事を知るのは、もう少し後になってからの事である。
周囲の闇から我が身を引き剥がそうとするかのようにそれは揺らぎ、ややあって内側からの圧力に屈したかのようにはらはらと闇が剥がれ落ち、再び周囲の闇に融け込んでいく。それと共に内側の存在も、その姿を明確にしつつあった。
質量を持った艶やかな闇が秀でた額を滑り落ち、揺らめく深緑の髪の流れの中に消えていく。
夢見るように閉ざされた瞼がゆっくりと上げられ、髪と同じく深緑に輝く瞳が現れた。
闇に未だ半身を浸しながら、少年はゆるりと眼を細めて周囲の闇を見はるかすかのように、頭(こうべ)を巡らせた。
形の良い唇の端が吊り上がり、くつりと幽かな笑い声が洩れる。
――結界を張ったか……
求めるものの姿を見出す事は出来なかったが、それもまた彼の想定の範囲内ではあった。
――そこまで執着するか……狗の仔よ……
揺らめく深緑の髪に闇が絡みつき、少年を再び己の内に取り込もうとする。それに逆らう事無く身を委ねながら、彼は再び満足げな笑みを浮かべた。
何も焦る必要は無いのだ。
全ては彼の望みのままに動いているのだから。
少年は静かに瞼を閉ざし、闇の中に己の身を沈めた。
「……邪見さま、これ苦ーい」
「我儘を言うでないっ。ちゃんと全部飲まんか!」
解毒の薬草を煎じた薬湯のあまりの苦さに、りんが顔を顰めるのを邪見が叱り付ける。
邪見が大急ぎで薬師の妖怪の許へ行って薬草を調達して戻ってみると、少女は主の毛皮に包(くる)まって眠っていた。どうやら、妖気については殺生丸の方で何らかの処置を施したらしく、りんの容態は少し落ち着いてはいたのだが、まだ本調子でない事は明らかだった。
主の無言の圧力に急き立てられるように、急いで薬草を煎じて薬湯を作り、りんを起こして渡したのだが、薬湯の苦さになかなか飲みこめないでいるらしい。助けを求めるようにりんが殺生丸を見上げるが、彼も黙ったまま薬湯を飲むように促すだけだった。
りんはじっと湯気を立てている椀を見ると、思い切ったように一息にそれを呷った。瞬間、口内に広がった苦味と鼻に抜ける独特の臭いに思わず吐き出しそうになるが、それを堪えて何とか飲み下す。
「……うぇぇ……きもちわるいよぅ……」
後味の悪さにぐずるりんに、邪見が竹筒の水を差し出す。それを受け取って、口の中を洗うようにして少しずつ飲むが、なかなか口の中に残った苦味は消えなかった。
「暫くは気持悪かろうが、我慢しろ。後はおとなしくしておれば、すぐに毒気は抜ける」
「……はぁい」
空になった竹筒を邪見に渡すと、再びもそもそと殺生丸の毛皮の中に潜り込む。眠っている所を起こされたためか、それとも薬湯の効果によるものなのか、すぐに規則正しい寝息が聞こえてきて、邪見は漸く肩の力を抜いた。
りんが寝ている間に空の竹筒に水を入れてきてやろうと、その旨を主に告げて泉の方に向かいかけた邪見を殺生丸が呼び止める。
「……水は森の外で汲んで来い」
「は?」
殺生丸の言葉に邪見が間の抜けた声を洩らす。
「水場ならすぐそこに泉がありますが……」
竹筒を片手に指差す邪見に、殺生丸は無表情のままじろりと金色の視線を向けた。どんな叱責よりも雄弁なその眼に、邪見がびしっと固まって思わず半歩ほど後ずさってしまう。
りんが毛皮の中で眠っていなかったら、まず間違いなく森の外まで蹴り飛ばされていたであろう事を察した邪見の額に嫌な汗が浮かぶ。
「……は……はいっ、畏まりました! す、すぐに行ってまいりますっ!」
あたふたと阿吽の手綱を取って、ばたばたと駆け出した下僕が姿を消すのと同時に、殺生丸の知覚に漣(さざなみ)のような『声』が響いてきた。
(むだなのに)
(そんなことをしても、むだなのに)
(その子はもうこちらにいるのに)
(その子はこちらにきてるのに)
視界の隅を、すい、と小さな影が掠める。くすくすと笑う気配も伝わってきて、殺生丸は不快げに眉を寄せた。
木霊は特に害の無い、妖怪と言うより精霊に近い存在であるが、それゆえに厄介な存在であるとも言えた。中間的な存在であるために、強い力を持つ存在に干渉された場合、容易く聖にも邪にもなりうるからだ。
今はまだどちらつかずの状態であるようだが、味方になることは決してありえないと判っているだけに、殺生丸の苛立ちは募っていった。
己一人であるならば――少なくとも、脆弱な少女を連れている状態でさえなければ――、この場を立ち去るか、この森を叩き潰せば済む事だが、今の状況はそれを許すものではなかった。
あの少年がりんの名を――不完全な形ではあるが――手にしている以上、迂闊な行動を取る訳にはいかず、また殺生丸の高すぎる矜持が少年に背を向けることを良しとしなかったのだ。
毛皮の中でりんがころりと寝返りを打つ。殺生丸は宙に眼を据えたまま、僅かに意識をそちらに向けて少女を更にしっかりと包(くる)み直すように毛皮を動かした。
この毛皮は殺生丸の身体の一部であり、それに包まれるという事は彼の妖気に包まれるという事でもある。つまり毛皮の中にいる者は、ある種の結界の中にいる状態であるともいえるのだった。
(みえなくなった)
(あの子をかくした)
(かくしたかくした)
囃(はや)し立てるような舌足らずな幼い『声』と、微かな気配が周囲を取り囲むのを感じる。
(むだだよ)
(むだだよ)
(むだだよ)
(――無駄だよ)
幼い『声』の中に違う気配が混ざったのを感じて、殺生丸はそちらに視線を向けた。
木立ちの中にあの少年が佇んでいる。
深緑の髪がさわりと揺れ、整った面(おもて)には薄く笑みが浮かんでいた。
だが、殺生丸の表情には何の感情の色も現れはしなかった。
(その子はこちらのものだよ)
挑発するような言葉にも、冷徹な無表情が揺らぐ事は無く、ただ僅かに金色の双眸が細められ、立てた膝の上に置いていた手が下に動いただけであった。
(こちらがわのものだよ)
(こちらのものだよ)
(こちらの――……)
漣のように唱和していた『声』が不意に途切れる。
視界の隅を掠めていた小さな影がふっとかき消え、それと同時に佇んでいた少年の姿も陽炎のように揺らいだ。
殺生丸は無表情のまま地面についていた手を立てた膝の上に戻した。その鋭い爪の先は土で汚れており、先程まで手が置かれていた所の土は僅かに変色していた。
金色の双眸が見つめる先で、少年の姿は火に炙られた蝋の様にぐにゃりと歪み、幼い子供にも似た何かの姿がそれに一瞬重なって――消えた。
「……ふん」
面白くも無さそうにひとつ鼻を鳴らすと、殺生丸は静かに眼を閉じた。
水を汲んで戻ってきた邪見は、ふと妙な違和感を感じて眉を顰めた。
主は出かける前と同じ場所に腰を下ろしており、その毛皮に包まって眠っている少女にも何ら変わった様子はない。それにも拘らず邪見の妖怪としての知覚が、この場所が出かける前とは『何かが違う』と告げていた。
「……?」
疑問には思ったものの、殺生丸の雰囲気はとても質問を許すようなそれではなかったため、下僕の身としては口を噤んでいるしかなかった。
それに、自分でさえ感じ取れるような違和感に殺生丸が気づかない筈が無い。それなのに何も言わずにいるという事は、大した事ではないのだろうと邪見は結論付けた。
それが些か的を外していた事を知るのは、もう少し後になってからの事である。
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2005/11/09 |
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神隠しの森 〈4〉
前回連載時10〜12回分に、少しだけ書き足した分を加えました。
きりがいいのでここまで載せます。微妙にアイタタな兄上ですが…まあそこは目を瞑ってください(苦笑)
続きはちまちま書きますので、暫くお待ちください m(_ _)m
[神隠しの森 〈4〉] Read More↓
きりがいいのでここまで載せます。微妙にアイタタな兄上ですが…まあそこは目を瞑ってください(苦笑)
続きはちまちま書きますので、暫くお待ちください m(_ _)m
赤くなっている顎を冷やさないと、と言って邪見がりんを連れて行ったのは森の奥のほうにある小さな泉だった。
邪見に言われるままに冷たい水で顔を洗い、濡らした布で赤くなった痕を冷やすと痛みは徐々に引いていった。
それでも、未だに先程の殺生丸の行為から受けた衝撃から立ち直れずに、時折しゃくりあげるりんに、邪見は珍しく何処か躊躇うように声をかけた。
「……あのな、りん」
その声にりんが邪見のほうに顔を向ける。泣きはらして赤くなった目許を痛々しいものに見つめながらも、邪見は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「わしらは妖怪じゃ。……人間とは違う」
「……」
「お前は、あの木の実をくれた者には悪意を感じなかった、と言っておるが、悪意がないからといって、あの実が無害なものであったとは限らんのじゃ」
その言葉にりんは眼を伏せて、きゅっと唇を噛み締めた。
「例えば、人喰いの輩(やから)にとっては、人を喰うのは悪い事でも何でもない。……人間が魚を取って喰うのを悪いことだとは思っておらんようにな。それと同じように、人をただ愉しみの為に傷つけたり……殺したりする者にも、悪意や害意といったものは無いんじゃ」
「……」
邪見にそう言われても、りんはあの少年が自分を害そうとしたなどとは思えなかった。
彼らと一緒にいることに奇異の眼を向けてきたのは、人間ばかりではない。――いや、むしろ妖怪たちのほうが、りんの事を『異物』としてあからさまな侮蔑の視線を向けてきたのだ。
「……でも、あのひと……そんな風じゃなかった」
尚も言い募るりんに、邪見は小さくため息をついた。
「……まあ、百歩譲って、お前が言ったようにその者に悪意が無かったとしても、あの実が安全であるとは言い切れんのじゃ。妖怪には何とも無くても、人間には毒になるような物はいくらでもあるのだからな」
邪見の言葉は見事に真実の一端を衝いていたのだが、無論彼がそれを知る訳が無い。邪見はただ主の行為から、あの実は有害な――少なくともりんにとっては――物だと考えただけである。
無表情で無口で、およそ何を考えているのか解らない主であるが、彼がりんに対して意味もなく辛く当たったりすることはないと、邪見は確信していた。――長年仕えている自分に対しては、些細な事で蹴りが飛んでくる事を考えると、かなり悲しいものがあるのだが。
「……」
りんは無言のまま、水面に視線を落とした。
邪見の言っていることは正しいと、頭では理解できるのだが、心の何処かが酷く頑なになっているのも事実だった。
そんな彼女の内心を見透かしたように、邪見が問いを投げかけてくる。
「りん、考えても見ろ。殺生丸さまが今までお前に対して、意味もなく酷く当たったりされたことがあったか?」
「……ううん」
りんはゆっくりとかぶりを振った。
殺生丸が今までりんに言いつけたのは、食料や焚き火などに必要な物の自力調達だけで、その他にはこれといって厳しいことを言われた覚えは無い。りんの行動に関してあれこれと注意し、躾らしきものをしているのは、むしろ邪見のほうである。(考えようによっては、雑用は全て邪見に押し付けていると言えるかもしれない)その邪見にしても、口煩くあれこれと言ってはくるが、意味もなくりんを叱ったりすることはしない。
「そうじゃろう? だからきっと、あの実を処分されたのにも、何か理由があっての事なんじゃ。……殺生丸さまの感覚は、わしや阿吽よりずっと優れておるのじゃからな」
「……」
それでもりんは俯いたままだった。
あの時の殺生丸に感じた恐怖は、今も彼女の中に色濃く残っている。
例えそれが向けられた対象が自分ではなかったのだとしても、あの金色の瞳に宿る冷たい怒りの焔は、幼い少女の心胆を寒からしめるのに十分すぎる程のものだったのだ。
だが、りんを本当の意味で苛んでいたのはそれではなかった。
殺生丸に対し、心底から恐怖を感じた――それに対する自責の念こそが、彼女を真実苛んでいるものだった。
(……あたし、あの時……本当に怖いって、思った……)
思い返すだけでも背筋が凍りつくような恐怖が甦る。それは、幼い少女にとっては極当たり前の事だったのだが、りんにとっては恐怖を感じた事それ自体が耐えられないことだったのだ。
(殺生丸さまが、あたしを傷つけたりしないって……解ってたはずなのに。……ううん、元々あたしは殺生丸さまに助けてもらったんだから、殺されたって文句は言えないのに……)
己の生殺与奪の権利は殺生丸にあるにも拘らず、彼の行為に対して恐怖を感じた――それは、一途に妖を慕う少女の心を自責の念の只中に落とし込んだ。
りんは俯いたまま、こみあげてくる涙を誤魔化すように、濡れた布で顔を拭った。
「……だからな、そう泣くでない。――大体、わしなんぞ些細なことでしょっちゅう足蹴にされておるのじゃぞ。それに比べたらお前なんぞ恵まれておる方じゃ……」
段々と愚痴になりながらも、自分を慰めてくれている邪見に、大丈夫だからと何とか笑みを浮かべて見せると、老妖怪はほっとしたように肩の力を抜いた。
少年が消えた後も、殺生丸は暫しその場に佇んでいた。
その姿は超然とした冷徹さを湛えており、先程、本性を表しかけた事など微塵も感じさせるものではなかった。
だが、内心では――この男にしては極めて珍しいことではあったが――それこそ腸が煮えくり返るような怒りを感じていたのだ。
――あの子は我々の方に、より近しい者……
りんをまるで己のものであるかのように――そうするつもりがあることを隠そうともせずに――告げたその言葉は、酷く殺生丸の癇に触った。
だが同時に、それは相手の目的をもはっきりとさせる事ともなった。
相手の目的がはっきりとした以上、彼が取る行動はただひとつしかなく、そうする事に何の躊躇いも迷いも感じることは無かった。
(この殺生丸を敵に回した事を……)
先程引き裂いた樹が毒によって腐食し、崩れ去るのをちらりと見やって殺生丸は踵を返した。
(己の消滅と共に悔いるがいい――)
「……どういうことだ」
不機嫌さを隠そうともせずに発せられた主の言葉に、邪見は平伏して脂汗をだらだらと流しながら説明を始めた。
「……あ、あの……お、おそらく殺生丸さまの毒気と妖気に中ったのだと思います……」
殺生丸の視線の先には、阿吽に凭れてぐったりとしているりんの姿があった。息遣いは荒く、体臭も熱がこもったようなものに変化している。
邪見の説明によれば、赤くなった顎を冷やすために向かった泉からの帰り道に、いきなり倒れたのだという。小柄な邪見にりんを支えることは出来ず、慌てて阿吽を呼んで此処まで運んだのだと。
「……そ、その、つまりですな。あ、あの時に、毒気が指に残っておられたのではないかと……妖気も強まっておられましたし……」
「……」
いつ蹴りが飛んでくるかと、びくびくしながら額を地面に擦り付けている下僕を一瞥すると、殺生丸は無言のままりんの側に近づいた。
彼の気配に気づいたのか、眼を閉じてぐったりとしていたりんがのろのろと顔を上げる。
「……殺生丸さま……」
熱で潤んだ瞳がぼんやりと殺生丸の姿を映す。その様子を注意深く見つめながら、殺生丸は軽く身を屈め、手を伸ばして指先で彼女の額に触れた。
ひやりとした指が触れる感触に、りんは熱に浮かされながらも嬉しそうに顔を綻ばせた。熱を持った額に冷たい指の感触が心地よかったのもあるが、彼が自分に触れてくれたという事に対する嬉しさの方が勝っていた。
そんなりんの様子を見つめながら、殺生丸は下僕の言葉の正しさを苦々しい思いで認めていた。
りん自身は気がついていないだろうが、殺生丸が側に来たことで明らかに彼女の体調は悪化していたのだ。それは、りんの中に入り込んだ妖気が彼自身の妖気と反応して強まり、人間である彼女の体内の「気」を食い荒らしているために他ならなかった。
「……邪見」
「は、はいっ!」
「この近くに薬師の妖怪がいたはずだ。……人間にも使える解毒剤を調達して来い」
「は、はいっ! 畏まりました!」
がばりと起き上がって慌てて駆け出そうとするのを制すると、阿吽に合図をして邪見を連れて行くように命じた。りんを気遣うようにそっと身を起こす騎獣の動きにあわせ、りんの身体を軽く引き寄せて支えてやると、阿吽は安心したように邪見を連れて行った。
殺生丸は己が毛皮でりんの身体を包みこんで、慎重に地面に横たえた。
妖怪であれば――余程の雑魚でもない限り――あの程度の毒気に影響されることは無いのだが、人間であるりんの身体にはかなり堪えたらしい。殺生丸も解毒の方法を心得ていない訳ではなかったのだが、それは毒と同程度の強さの妖力で中和するといったものであるので、今のように妖気に中っている相手に使うわけにはいかない。
ぐったりと毛皮の上に横たわっているりんを見やると、殺生丸は熱を持った彼女の頬に自分の掌を押し当てた。瞬間、りんの体内の妖気が反応して強まるのが感じられるが、殺生丸の意志に応じてそれは徐々に鎮まっていった。
苦しげに呻いて身じろいだりんの表情が、苦しげなものから段々と落ち着いたものに変わっていく。不規則だった息遣いも徐々に正常なそれに変わり、やがて寝息に取って代わった。
強張っていた身体からも力が抜け、自然な動作で頬に当てられた手に懐くように擦り寄ってくる。その様子はまだ本当に稚(いとけな)く、彼女がまだまだ幼いことを実感させるものだった。
「……」
殺生丸は無言のまま頬に当てていた手を滑らせ、少女の細い首筋に指を這わせた。りんは擽ったそうに首を竦めて小さく声を漏らしたが、目覚める様子は無く、殺生丸の手から逃げようともしなかった。
指先に感じる脈打つ血の流れに引き寄せられるように、殺生丸はりんの上に覆いかぶさるようにして身を屈めた。自身の中(うち)からこみ上げてくる衝動に逆らう事無く、獣の本能そのままに血の道を舌先で辿り、軽く――痛みや痕を残さぬ程度に――牙を当てて柔らかな肌の感触を確かめる。それは情欲からの行為というより、獣が自らの眷属に対して行う確認のそれに近かった。
何かの儀式めいたその行為は暫く続けられ、ややあって殺生丸が体を起こした時、その白皙の面(おもて)には何処かしら満足したような表情が浮かんでいた。
邪見に言われるままに冷たい水で顔を洗い、濡らした布で赤くなった痕を冷やすと痛みは徐々に引いていった。
それでも、未だに先程の殺生丸の行為から受けた衝撃から立ち直れずに、時折しゃくりあげるりんに、邪見は珍しく何処か躊躇うように声をかけた。
「……あのな、りん」
その声にりんが邪見のほうに顔を向ける。泣きはらして赤くなった目許を痛々しいものに見つめながらも、邪見は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「わしらは妖怪じゃ。……人間とは違う」
「……」
「お前は、あの木の実をくれた者には悪意を感じなかった、と言っておるが、悪意がないからといって、あの実が無害なものであったとは限らんのじゃ」
その言葉にりんは眼を伏せて、きゅっと唇を噛み締めた。
「例えば、人喰いの輩(やから)にとっては、人を喰うのは悪い事でも何でもない。……人間が魚を取って喰うのを悪いことだとは思っておらんようにな。それと同じように、人をただ愉しみの為に傷つけたり……殺したりする者にも、悪意や害意といったものは無いんじゃ」
「……」
邪見にそう言われても、りんはあの少年が自分を害そうとしたなどとは思えなかった。
彼らと一緒にいることに奇異の眼を向けてきたのは、人間ばかりではない。――いや、むしろ妖怪たちのほうが、りんの事を『異物』としてあからさまな侮蔑の視線を向けてきたのだ。
「……でも、あのひと……そんな風じゃなかった」
尚も言い募るりんに、邪見は小さくため息をついた。
「……まあ、百歩譲って、お前が言ったようにその者に悪意が無かったとしても、あの実が安全であるとは言い切れんのじゃ。妖怪には何とも無くても、人間には毒になるような物はいくらでもあるのだからな」
邪見の言葉は見事に真実の一端を衝いていたのだが、無論彼がそれを知る訳が無い。邪見はただ主の行為から、あの実は有害な――少なくともりんにとっては――物だと考えただけである。
無表情で無口で、およそ何を考えているのか解らない主であるが、彼がりんに対して意味もなく辛く当たったりすることはないと、邪見は確信していた。――長年仕えている自分に対しては、些細な事で蹴りが飛んでくる事を考えると、かなり悲しいものがあるのだが。
「……」
りんは無言のまま、水面に視線を落とした。
邪見の言っていることは正しいと、頭では理解できるのだが、心の何処かが酷く頑なになっているのも事実だった。
そんな彼女の内心を見透かしたように、邪見が問いを投げかけてくる。
「りん、考えても見ろ。殺生丸さまが今までお前に対して、意味もなく酷く当たったりされたことがあったか?」
「……ううん」
りんはゆっくりとかぶりを振った。
殺生丸が今までりんに言いつけたのは、食料や焚き火などに必要な物の自力調達だけで、その他にはこれといって厳しいことを言われた覚えは無い。りんの行動に関してあれこれと注意し、躾らしきものをしているのは、むしろ邪見のほうである。(考えようによっては、雑用は全て邪見に押し付けていると言えるかもしれない)その邪見にしても、口煩くあれこれと言ってはくるが、意味もなくりんを叱ったりすることはしない。
「そうじゃろう? だからきっと、あの実を処分されたのにも、何か理由があっての事なんじゃ。……殺生丸さまの感覚は、わしや阿吽よりずっと優れておるのじゃからな」
「……」
それでもりんは俯いたままだった。
あの時の殺生丸に感じた恐怖は、今も彼女の中に色濃く残っている。
例えそれが向けられた対象が自分ではなかったのだとしても、あの金色の瞳に宿る冷たい怒りの焔は、幼い少女の心胆を寒からしめるのに十分すぎる程のものだったのだ。
だが、りんを本当の意味で苛んでいたのはそれではなかった。
殺生丸に対し、心底から恐怖を感じた――それに対する自責の念こそが、彼女を真実苛んでいるものだった。
(……あたし、あの時……本当に怖いって、思った……)
思い返すだけでも背筋が凍りつくような恐怖が甦る。それは、幼い少女にとっては極当たり前の事だったのだが、りんにとっては恐怖を感じた事それ自体が耐えられないことだったのだ。
(殺生丸さまが、あたしを傷つけたりしないって……解ってたはずなのに。……ううん、元々あたしは殺生丸さまに助けてもらったんだから、殺されたって文句は言えないのに……)
己の生殺与奪の権利は殺生丸にあるにも拘らず、彼の行為に対して恐怖を感じた――それは、一途に妖を慕う少女の心を自責の念の只中に落とし込んだ。
りんは俯いたまま、こみあげてくる涙を誤魔化すように、濡れた布で顔を拭った。
「……だからな、そう泣くでない。――大体、わしなんぞ些細なことでしょっちゅう足蹴にされておるのじゃぞ。それに比べたらお前なんぞ恵まれておる方じゃ……」
段々と愚痴になりながらも、自分を慰めてくれている邪見に、大丈夫だからと何とか笑みを浮かべて見せると、老妖怪はほっとしたように肩の力を抜いた。
少年が消えた後も、殺生丸は暫しその場に佇んでいた。
その姿は超然とした冷徹さを湛えており、先程、本性を表しかけた事など微塵も感じさせるものではなかった。
だが、内心では――この男にしては極めて珍しいことではあったが――それこそ腸が煮えくり返るような怒りを感じていたのだ。
――あの子は我々の方に、より近しい者……
りんをまるで己のものであるかのように――そうするつもりがあることを隠そうともせずに――告げたその言葉は、酷く殺生丸の癇に触った。
だが同時に、それは相手の目的をもはっきりとさせる事ともなった。
相手の目的がはっきりとした以上、彼が取る行動はただひとつしかなく、そうする事に何の躊躇いも迷いも感じることは無かった。
(この殺生丸を敵に回した事を……)
先程引き裂いた樹が毒によって腐食し、崩れ去るのをちらりと見やって殺生丸は踵を返した。
(己の消滅と共に悔いるがいい――)
「……どういうことだ」
不機嫌さを隠そうともせずに発せられた主の言葉に、邪見は平伏して脂汗をだらだらと流しながら説明を始めた。
「……あ、あの……お、おそらく殺生丸さまの毒気と妖気に中ったのだと思います……」
殺生丸の視線の先には、阿吽に凭れてぐったりとしているりんの姿があった。息遣いは荒く、体臭も熱がこもったようなものに変化している。
邪見の説明によれば、赤くなった顎を冷やすために向かった泉からの帰り道に、いきなり倒れたのだという。小柄な邪見にりんを支えることは出来ず、慌てて阿吽を呼んで此処まで運んだのだと。
「……そ、その、つまりですな。あ、あの時に、毒気が指に残っておられたのではないかと……妖気も強まっておられましたし……」
「……」
いつ蹴りが飛んでくるかと、びくびくしながら額を地面に擦り付けている下僕を一瞥すると、殺生丸は無言のままりんの側に近づいた。
彼の気配に気づいたのか、眼を閉じてぐったりとしていたりんがのろのろと顔を上げる。
「……殺生丸さま……」
熱で潤んだ瞳がぼんやりと殺生丸の姿を映す。その様子を注意深く見つめながら、殺生丸は軽く身を屈め、手を伸ばして指先で彼女の額に触れた。
ひやりとした指が触れる感触に、りんは熱に浮かされながらも嬉しそうに顔を綻ばせた。熱を持った額に冷たい指の感触が心地よかったのもあるが、彼が自分に触れてくれたという事に対する嬉しさの方が勝っていた。
そんなりんの様子を見つめながら、殺生丸は下僕の言葉の正しさを苦々しい思いで認めていた。
りん自身は気がついていないだろうが、殺生丸が側に来たことで明らかに彼女の体調は悪化していたのだ。それは、りんの中に入り込んだ妖気が彼自身の妖気と反応して強まり、人間である彼女の体内の「気」を食い荒らしているために他ならなかった。
「……邪見」
「は、はいっ!」
「この近くに薬師の妖怪がいたはずだ。……人間にも使える解毒剤を調達して来い」
「は、はいっ! 畏まりました!」
がばりと起き上がって慌てて駆け出そうとするのを制すると、阿吽に合図をして邪見を連れて行くように命じた。りんを気遣うようにそっと身を起こす騎獣の動きにあわせ、りんの身体を軽く引き寄せて支えてやると、阿吽は安心したように邪見を連れて行った。
殺生丸は己が毛皮でりんの身体を包みこんで、慎重に地面に横たえた。
妖怪であれば――余程の雑魚でもない限り――あの程度の毒気に影響されることは無いのだが、人間であるりんの身体にはかなり堪えたらしい。殺生丸も解毒の方法を心得ていない訳ではなかったのだが、それは毒と同程度の強さの妖力で中和するといったものであるので、今のように妖気に中っている相手に使うわけにはいかない。
ぐったりと毛皮の上に横たわっているりんを見やると、殺生丸は熱を持った彼女の頬に自分の掌を押し当てた。瞬間、りんの体内の妖気が反応して強まるのが感じられるが、殺生丸の意志に応じてそれは徐々に鎮まっていった。
苦しげに呻いて身じろいだりんの表情が、苦しげなものから段々と落ち着いたものに変わっていく。不規則だった息遣いも徐々に正常なそれに変わり、やがて寝息に取って代わった。
強張っていた身体からも力が抜け、自然な動作で頬に当てられた手に懐くように擦り寄ってくる。その様子はまだ本当に稚(いとけな)く、彼女がまだまだ幼いことを実感させるものだった。
「……」
殺生丸は無言のまま頬に当てていた手を滑らせ、少女の細い首筋に指を這わせた。りんは擽ったそうに首を竦めて小さく声を漏らしたが、目覚める様子は無く、殺生丸の手から逃げようともしなかった。
指先に感じる脈打つ血の流れに引き寄せられるように、殺生丸はりんの上に覆いかぶさるようにして身を屈めた。自身の中(うち)からこみ上げてくる衝動に逆らう事無く、獣の本能そのままに血の道を舌先で辿り、軽く――痛みや痕を残さぬ程度に――牙を当てて柔らかな肌の感触を確かめる。それは情欲からの行為というより、獣が自らの眷属に対して行う確認のそれに近かった。
何かの儀式めいたその行為は暫く続けられ、ややあって殺生丸が体を起こした時、その白皙の面(おもて)には何処かしら満足したような表情が浮かんでいた。
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2005/09/28 |
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神隠しの森 〈3〉
前回連載時8〜9回を纏めました。書いていて途轍もなく楽しかった回です(^^
[神隠しの森 〈3〉] Read More↓
少女と下僕の待つ場所に向かっていた殺生丸は、嗅ぎなれない臭いを感じて僅かに眉を寄せた。
下僕と騎獣の匂いには、これといった異常は感じられない。
問題があるとするならば、それは残る一人である人間の少女に関するものであった。
「……」
殺生丸は慎重に匂いの嗅ぎ分けを行い、その結果、少女自身の匂いには特に異常がないことが判った。ただ、少女の周囲に「何か」の臭いが纏わり付いているのだ。
喜色満面で自分の許に駆け寄ってくる少女が持っている物に眼をやり、殺生丸は探るようにそれを見つめた。
「殺生丸さま、お帰りなさい!」
満開の花のような笑顔で見上げてくるりんが、殺生丸の視線の先に気が付いて、手に持った枝を掲げて見せる。
「あのね、りんがごはん探してたら、森で会った子がくれたの。とっても綺麗だから、殺生丸さまにも見せたいなぁって思って」
そう言いながら、得体の知れぬ臭いのする果実の枝を大事そうに持っているりんに、殺生丸は無言のまま手を差し出した。
「?」
意図が掴めないのか、差し出された手を見つめてきょとんとしているりんに、邪見が慌てたように話しかけてくる。
「りん、殺生丸さまにそれをお渡しするんじゃっ」
「これ?」
どうして殺生丸がそれに興味を示すのかは解らなかったが、とりあえず邪見の言うとおりに枝を渡すと、彼はいつになく厳しい眼でそれをじっと見つめていた。
「……誰に貰った?」
「え? だから、森で会った子に…」
「何者だ」
「……えっと…よく、わかんない、です……」
詰問するような口調に、りんが口ごもるのを見て、下僕の方に視線をやると、緑色の顔から血の気を引かせながらも説明を始める。
「な、何でも、見たところ十四、五歳くらいの少年に貰ったそうです。…人でないのは確かだそうですが、わしは直接は見ておりませんので、何とも……」
冷や汗をだらだらと流しながら説明する邪見に、氷のような一瞥をくれると、再びりんに向き直って問い質す。
「其奴は何と名乗った?」
殺生丸にそう訊かれて、りんはあの少年の名前を聞いていなかった事を思い出した。そこで頭(かぶり)を振ると、殺生丸はますます目許を険しくして言葉を継いだ。
「其奴に名を告げたのか?」
「え? ……んーと……あ、言わなかったなぁ…」
「言わなかったのだな」
確認するような言葉に、りんはこくりと頷いた。
「何じゃ、名も聞いておらなんだのか?」
横から邪見が訊いてくるのにも、うんと頷いて、
「名前、聞き損ねちゃってたし、りんも聞かれなかったから、言うの忘れてたみたい」
さらりとした口調でそう言うりんに、邪見は呆れたような顔になったが、それとは対照的に殺生丸の表情からは幾分険しさが薄らいだ。
これでこの話は終わりだと思ったのか、りんが殺生丸を見上げて手を差し出してくる。
「殺生丸さま、それ、返して」
彼に渡したままの枝に手を伸ばすのを軽くかわすと、果実とりんを交互に見て口を開く。
「…まだ食ってはいないのか」
「うん。殺生丸さまに見せてから、と思って我慢してたから」
だから早く返してくれというりんを、感情の伺えない金色の眼で見下ろして、殺生丸は枝を持った手に意識を集中させた。
「?」
怪訝そうなりんの目の前で、殺生丸の毒爪に掴まれた枝がみるみるうちに腐食していく。
「! あーっ! 何するんですか!?」
慌てて手を伸ばすりんを、それ以上に慌てた様子で引き止めたのは阿吽と邪見である。双頭竜はそれぞれの頭でりんの着物の襟と二の腕の辺りを咥えて主から引き離し、邪見も前に回りこんで彼女の膝を押して殺生丸との距離を開いた。
「ば、馬鹿者! 何をしておるか! お前なんぞが殺生丸さまの毒気に中ったら、ひとたまりもないのだぞっ!」
「だって、あれ…!」
りんが抗議している間に、枝と果実は僅かな腐汁と化して地面に滴った。その場の下草もみるみるうちにどす黒く変色していく。殺生丸は軽く手を振って腐汁を払いのけると、邪見と阿吽に押さえ込まれているりんに鋭い目を向けた。
「其奴に名を告げず、この果実も食わなかったのだな」
念を押すようにそう告げるのに、りんが珍しく反抗的な眼で見上げてきて、無言でこくりと頷いた。
実際、りんはかなり腹を立てていたのだ。大切な食料を台無しにされた、というのもあったが、人から貰った物を無碍に扱われた、というのが主な原因だった。妖怪と一緒にいる事に奇異の眼を向けようとしなかった少年に、りんは好意にも似た感情を抱いていたのだ。
むっとしたような表情のりんを見て何を思ったのか、殺生丸はりんの方にやってきて、無言のままその小さな頤〈おとがい)を強く掴んで彼女の口をこじ開けた。痛みにりんの顔が泣き出しそうに歪むが、それにも構わずにそのこじ開けた口元をじっと見つめる。
痛みと毒に対する本能的な恐怖で、りんの身体が強張っているのを感じとってはいたが、己の感覚できちんと確認しないと気が済まなかったのだ。
ややあって殺生丸が指を離すと、掴まれていたところは赤く痕が残っていた。解放された途端、その場にへたりこんで、ひくりとしゃくりあげたりんを、邪見が慌てて宥め始める。
「……なんで……こんなこと、するの……?」
痛む顎を押さえて、しゃくりあげながらそう言うりんに何も答えようとせず、殺生丸は彼らに背を向けて歩き始めた。
「せ、殺生丸さま、何処へ行かれるのですか?」
りんを宥めていた邪見が慌てて後を追う。
「あ、あの……りんが何かお気に触る事をしでかしたのでしたら、わしがちゃんと言って聞かせますから、殺生丸さまがわざわざ仰る必要は……ふぐぉっ!」
彼が不機嫌なのを察して、あれこれと言ってくる邪見を蹴り飛ばすと、殺生丸は地を蹴ってその場を後にした。
ややあって、殺生丸が降り立ったのは、りんがあの少年と出会った場所であった。
「出て来い。此処にいるのは判っている」
不機嫌なのを隠そうともせずに、鋭い声でそう言うと、金色の眼である一点を見据える。
だが、彼の声に応えるものはなく、ただ鳥の声と葉擦れの音がするだけだった。
殺生丸は苛立たしげに舌打ちすると、隻腕をあげて側にある樹に手をかけ、毒爪をその幹に突き立てた。強い毒に侵された樹が、瞬く間に腐食してどす黒く変色していく。
「……出て来い」
地を這うような低い声でそう言うと同時に、毒に侵された樹が脆い細工物のようにぐしゃりと崩れた。
「……随分と、酷いことをするね」
柔らかな声とともにその場に唐突に出現した少年に、殺生丸は刃のような視線を向けた。
少年は端正な顔立ちを些か厳しいものにして、その視線を受け止めた。それからその深緑の瞳を崩れた樹に向ける。妖の毒に侵された樹が、その場の大地をも腐食しているのを見て取ると、不快そうに眉を寄せ、軽く右手を振った。
その瞬間、腐食した樹は砂のようにさらさらと風化していき、どす黒く変色していた大地も――枯れた下生えの草はどうしようもなかったが――元の色を取り戻した。
それを見届けると、少年は小さくため息をついて殺生丸に向き直った。
「八つ当たりはやめて欲しいね」
「ならば、このような物を連れに渡したりするべきではなかったな」
そう言うなり右手を一閃させ、何かを少年に向かって投げつける。それを少し頭を動かしただけで避けた少年の側の樹の幹に、ぐしゃりという音を立てて潰れた木の実がへばりついた。途端、周囲に甘ったるい臭いが漂う。それは、りんがこの少年から貰い、殺生丸の毒によって一つ残らず腐汁と成り果てた筈の不思議な果実に間違いなかった。
「……おや、食べなかったんだね」
ちらりとそれに眼をやり、何でもないような口調で呟く。
潰れた果実がへばりついた箇所が、じわじわと変色していく。……それは、殺生丸の爪の毒には遠く及ばないまでも、人間なら――それも幼い少女であれば――命を落とすのに十分な強さの毒がこの果実に含まれていることを示していた。
「本当に、酷いことをする」
柔らかな口調でそう言うと、少年は樹に手を触れた。それと同時に変色していた場所が、元の木肌の色になっていく。
慈しむように樹を撫で、少年はその深緑の瞳で殺生丸をじっと見据えた。
「……なるほど、狗の仔か。それならば鼻も利くな」
くつりと喉の奥で嗤う少年に、殺生丸は鋭い目を向けた。
「妖が人の娘に執着するとは……面白い。実に、面白いな」
形の良い唇の端を吊り上げ、昏い愉悦の色を含んだ笑みを浮かべる。もしりんが今の少年を見ていたら、決して彼に近寄ろうとはしなかっただろう。
「貴様には関係ない」
くすくすと少年が楽しそうに笑う。
「あの子が名乗らなかったからといって、安心するのはどうかな」
そう言いながら、再び傍らの樹に手をかける。深緑の瞳と髪が、不可思議な光を帯びて煌いた。
「あれが名乗らねば、名は取れまい」
殺生丸の言葉に少年は声を立てて笑った。
「確かに。あの子は不思議な子だね。――無意識のうちに、私に名を告げる事を避けていた」
少年が傍らの樹を見やり、それから殺生丸に視線を戻す。その口元が歪み、ひとつの言葉が紡ぎ出される。
「りん、と言うんだね」
いい名前だと、歌うように呟くのを聞いた瞬間、殺生丸の表情が変わった。それを面白そうに見ながら、少年は森の中を見透かそうとするかのように、視線を流した。
「……たとえ名乗らずとも、この森の樹々たちに訊けばすぐに分かる」
平然とした口調でそう言う少年に、殺生丸が鋭い視線を向ける。
「すぐに答えが返ってきたよ。……あの愛らしい子の名は『りん』だとね」
「……名を知ってはいても、あれから直接聞いたのでなければ意味はあるまい」
殺生丸の言葉に少年の唇の端が吊り上がる。
「……あの子が、君ほど己の名の価値を知っていればね」
ざわりと殺生丸の周囲の空気が蠢き、その両眼が血の色に染まっていく。普通の人間や並の妖怪であれば、発狂しかねないほどの強烈な妖気がその場に渦巻くが、少年は僅かに片方の眉を上げただけで平然としていた。
「何故あれを狙う」
「あの子は我々の方により近しい者。……妖怪などと共にあるべきではない」
いつの間にか、後ろで束ねられていた筈の深緑の髪が解かれ、それ自体が意志を持つかのように少年の身体の周りでざわめく。
「手っ取り早く引き離すために、あのような小細工をしたか」
毒の果実を渡したことを仄めかすと、少年はくつくつと喉の奥で嗤った。
「『門』をくぐるのに、肉体など必要ない」
それを聞いた瞬間、殺生丸の右手が一閃し、少年の身体を引き裂いた――かに見えたが、実際にその爪が引き裂いたのは、その側の樹であった。
「肉体が無ければ、その忌々しい刀も役には立たぬ」
瞬時に別の場所に移動した少年が、天生牙を見据えて呟く。
「……ここは『境の森』。――このような場所に、あの子を連れてくるべきではなかったな。狗の仔よ」
嘲笑うようなその言葉を残して、少年の姿はかき消すように消えた。
下僕と騎獣の匂いには、これといった異常は感じられない。
問題があるとするならば、それは残る一人である人間の少女に関するものであった。
「……」
殺生丸は慎重に匂いの嗅ぎ分けを行い、その結果、少女自身の匂いには特に異常がないことが判った。ただ、少女の周囲に「何か」の臭いが纏わり付いているのだ。
喜色満面で自分の許に駆け寄ってくる少女が持っている物に眼をやり、殺生丸は探るようにそれを見つめた。
「殺生丸さま、お帰りなさい!」
満開の花のような笑顔で見上げてくるりんが、殺生丸の視線の先に気が付いて、手に持った枝を掲げて見せる。
「あのね、りんがごはん探してたら、森で会った子がくれたの。とっても綺麗だから、殺生丸さまにも見せたいなぁって思って」
そう言いながら、得体の知れぬ臭いのする果実の枝を大事そうに持っているりんに、殺生丸は無言のまま手を差し出した。
「?」
意図が掴めないのか、差し出された手を見つめてきょとんとしているりんに、邪見が慌てたように話しかけてくる。
「りん、殺生丸さまにそれをお渡しするんじゃっ」
「これ?」
どうして殺生丸がそれに興味を示すのかは解らなかったが、とりあえず邪見の言うとおりに枝を渡すと、彼はいつになく厳しい眼でそれをじっと見つめていた。
「……誰に貰った?」
「え? だから、森で会った子に…」
「何者だ」
「……えっと…よく、わかんない、です……」
詰問するような口調に、りんが口ごもるのを見て、下僕の方に視線をやると、緑色の顔から血の気を引かせながらも説明を始める。
「な、何でも、見たところ十四、五歳くらいの少年に貰ったそうです。…人でないのは確かだそうですが、わしは直接は見ておりませんので、何とも……」
冷や汗をだらだらと流しながら説明する邪見に、氷のような一瞥をくれると、再びりんに向き直って問い質す。
「其奴は何と名乗った?」
殺生丸にそう訊かれて、りんはあの少年の名前を聞いていなかった事を思い出した。そこで頭(かぶり)を振ると、殺生丸はますます目許を険しくして言葉を継いだ。
「其奴に名を告げたのか?」
「え? ……んーと……あ、言わなかったなぁ…」
「言わなかったのだな」
確認するような言葉に、りんはこくりと頷いた。
「何じゃ、名も聞いておらなんだのか?」
横から邪見が訊いてくるのにも、うんと頷いて、
「名前、聞き損ねちゃってたし、りんも聞かれなかったから、言うの忘れてたみたい」
さらりとした口調でそう言うりんに、邪見は呆れたような顔になったが、それとは対照的に殺生丸の表情からは幾分険しさが薄らいだ。
これでこの話は終わりだと思ったのか、りんが殺生丸を見上げて手を差し出してくる。
「殺生丸さま、それ、返して」
彼に渡したままの枝に手を伸ばすのを軽くかわすと、果実とりんを交互に見て口を開く。
「…まだ食ってはいないのか」
「うん。殺生丸さまに見せてから、と思って我慢してたから」
だから早く返してくれというりんを、感情の伺えない金色の眼で見下ろして、殺生丸は枝を持った手に意識を集中させた。
「?」
怪訝そうなりんの目の前で、殺生丸の毒爪に掴まれた枝がみるみるうちに腐食していく。
「! あーっ! 何するんですか!?」
慌てて手を伸ばすりんを、それ以上に慌てた様子で引き止めたのは阿吽と邪見である。双頭竜はそれぞれの頭でりんの着物の襟と二の腕の辺りを咥えて主から引き離し、邪見も前に回りこんで彼女の膝を押して殺生丸との距離を開いた。
「ば、馬鹿者! 何をしておるか! お前なんぞが殺生丸さまの毒気に中ったら、ひとたまりもないのだぞっ!」
「だって、あれ…!」
りんが抗議している間に、枝と果実は僅かな腐汁と化して地面に滴った。その場の下草もみるみるうちにどす黒く変色していく。殺生丸は軽く手を振って腐汁を払いのけると、邪見と阿吽に押さえ込まれているりんに鋭い目を向けた。
「其奴に名を告げず、この果実も食わなかったのだな」
念を押すようにそう告げるのに、りんが珍しく反抗的な眼で見上げてきて、無言でこくりと頷いた。
実際、りんはかなり腹を立てていたのだ。大切な食料を台無しにされた、というのもあったが、人から貰った物を無碍に扱われた、というのが主な原因だった。妖怪と一緒にいる事に奇異の眼を向けようとしなかった少年に、りんは好意にも似た感情を抱いていたのだ。
むっとしたような表情のりんを見て何を思ったのか、殺生丸はりんの方にやってきて、無言のままその小さな頤〈おとがい)を強く掴んで彼女の口をこじ開けた。痛みにりんの顔が泣き出しそうに歪むが、それにも構わずにそのこじ開けた口元をじっと見つめる。
痛みと毒に対する本能的な恐怖で、りんの身体が強張っているのを感じとってはいたが、己の感覚できちんと確認しないと気が済まなかったのだ。
ややあって殺生丸が指を離すと、掴まれていたところは赤く痕が残っていた。解放された途端、その場にへたりこんで、ひくりとしゃくりあげたりんを、邪見が慌てて宥め始める。
「……なんで……こんなこと、するの……?」
痛む顎を押さえて、しゃくりあげながらそう言うりんに何も答えようとせず、殺生丸は彼らに背を向けて歩き始めた。
「せ、殺生丸さま、何処へ行かれるのですか?」
りんを宥めていた邪見が慌てて後を追う。
「あ、あの……りんが何かお気に触る事をしでかしたのでしたら、わしがちゃんと言って聞かせますから、殺生丸さまがわざわざ仰る必要は……ふぐぉっ!」
彼が不機嫌なのを察して、あれこれと言ってくる邪見を蹴り飛ばすと、殺生丸は地を蹴ってその場を後にした。
ややあって、殺生丸が降り立ったのは、りんがあの少年と出会った場所であった。
「出て来い。此処にいるのは判っている」
不機嫌なのを隠そうともせずに、鋭い声でそう言うと、金色の眼である一点を見据える。
だが、彼の声に応えるものはなく、ただ鳥の声と葉擦れの音がするだけだった。
殺生丸は苛立たしげに舌打ちすると、隻腕をあげて側にある樹に手をかけ、毒爪をその幹に突き立てた。強い毒に侵された樹が、瞬く間に腐食してどす黒く変色していく。
「……出て来い」
地を這うような低い声でそう言うと同時に、毒に侵された樹が脆い細工物のようにぐしゃりと崩れた。
「……随分と、酷いことをするね」
柔らかな声とともにその場に唐突に出現した少年に、殺生丸は刃のような視線を向けた。
少年は端正な顔立ちを些か厳しいものにして、その視線を受け止めた。それからその深緑の瞳を崩れた樹に向ける。妖の毒に侵された樹が、その場の大地をも腐食しているのを見て取ると、不快そうに眉を寄せ、軽く右手を振った。
その瞬間、腐食した樹は砂のようにさらさらと風化していき、どす黒く変色していた大地も――枯れた下生えの草はどうしようもなかったが――元の色を取り戻した。
それを見届けると、少年は小さくため息をついて殺生丸に向き直った。
「八つ当たりはやめて欲しいね」
「ならば、このような物を連れに渡したりするべきではなかったな」
そう言うなり右手を一閃させ、何かを少年に向かって投げつける。それを少し頭を動かしただけで避けた少年の側の樹の幹に、ぐしゃりという音を立てて潰れた木の実がへばりついた。途端、周囲に甘ったるい臭いが漂う。それは、りんがこの少年から貰い、殺生丸の毒によって一つ残らず腐汁と成り果てた筈の不思議な果実に間違いなかった。
「……おや、食べなかったんだね」
ちらりとそれに眼をやり、何でもないような口調で呟く。
潰れた果実がへばりついた箇所が、じわじわと変色していく。……それは、殺生丸の爪の毒には遠く及ばないまでも、人間なら――それも幼い少女であれば――命を落とすのに十分な強さの毒がこの果実に含まれていることを示していた。
「本当に、酷いことをする」
柔らかな口調でそう言うと、少年は樹に手を触れた。それと同時に変色していた場所が、元の木肌の色になっていく。
慈しむように樹を撫で、少年はその深緑の瞳で殺生丸をじっと見据えた。
「……なるほど、狗の仔か。それならば鼻も利くな」
くつりと喉の奥で嗤う少年に、殺生丸は鋭い目を向けた。
「妖が人の娘に執着するとは……面白い。実に、面白いな」
形の良い唇の端を吊り上げ、昏い愉悦の色を含んだ笑みを浮かべる。もしりんが今の少年を見ていたら、決して彼に近寄ろうとはしなかっただろう。
「貴様には関係ない」
くすくすと少年が楽しそうに笑う。
「あの子が名乗らなかったからといって、安心するのはどうかな」
そう言いながら、再び傍らの樹に手をかける。深緑の瞳と髪が、不可思議な光を帯びて煌いた。
「あれが名乗らねば、名は取れまい」
殺生丸の言葉に少年は声を立てて笑った。
「確かに。あの子は不思議な子だね。――無意識のうちに、私に名を告げる事を避けていた」
少年が傍らの樹を見やり、それから殺生丸に視線を戻す。その口元が歪み、ひとつの言葉が紡ぎ出される。
「りん、と言うんだね」
いい名前だと、歌うように呟くのを聞いた瞬間、殺生丸の表情が変わった。それを面白そうに見ながら、少年は森の中を見透かそうとするかのように、視線を流した。
「……たとえ名乗らずとも、この森の樹々たちに訊けばすぐに分かる」
平然とした口調でそう言う少年に、殺生丸が鋭い視線を向ける。
「すぐに答えが返ってきたよ。……あの愛らしい子の名は『りん』だとね」
「……名を知ってはいても、あれから直接聞いたのでなければ意味はあるまい」
殺生丸の言葉に少年の唇の端が吊り上がる。
「……あの子が、君ほど己の名の価値を知っていればね」
ざわりと殺生丸の周囲の空気が蠢き、その両眼が血の色に染まっていく。普通の人間や並の妖怪であれば、発狂しかねないほどの強烈な妖気がその場に渦巻くが、少年は僅かに片方の眉を上げただけで平然としていた。
「何故あれを狙う」
「あの子は我々の方により近しい者。……妖怪などと共にあるべきではない」
いつの間にか、後ろで束ねられていた筈の深緑の髪が解かれ、それ自体が意志を持つかのように少年の身体の周りでざわめく。
「手っ取り早く引き離すために、あのような小細工をしたか」
毒の果実を渡したことを仄めかすと、少年はくつくつと喉の奥で嗤った。
「『門』をくぐるのに、肉体など必要ない」
それを聞いた瞬間、殺生丸の右手が一閃し、少年の身体を引き裂いた――かに見えたが、実際にその爪が引き裂いたのは、その側の樹であった。
「肉体が無ければ、その忌々しい刀も役には立たぬ」
瞬時に別の場所に移動した少年が、天生牙を見据えて呟く。
「……ここは『境の森』。――このような場所に、あの子を連れてくるべきではなかったな。狗の仔よ」
嘲笑うようなその言葉を残して、少年の姿はかき消すように消えた。
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2005/09/28 |
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神隠しの森 〈2〉
前回連載時4〜7回までを纏めました。
4を書いている辺りから、方向性を変えようかと思い始め…今に至ります(苦笑)
[神隠しの森 〈2〉] Read More↓
4を書いている辺りから、方向性を変えようかと思い始め…今に至ります(苦笑)
翌日りんは、朝のうちから食料探しをしていた。
明るいうちだと村人が入ってくるかもしれないから、という理由で邪見は阿吽と共に森の奥で待っている。
しばらく探し回ったが、見つかったのは酸味の強い草の実が少しだけで、腹が膨れるようなものではない。
少し疲れたので、樹の根元に腰を下ろして休んでいると、ふと着物から覗く手足に目が行った。
「……着物、小さくなってるなぁ……」
今着ている着物は、邪見が何ヶ月か前に調達してきてくれたものだ。何でも、機織などを専門にしている妖怪の手になるものとかで、ちょっとやそっとでは破れたりしないが、大きさはどうしようもない。とはいっても、りんが育ち盛りであることを見越して、肩や裾の縫い上げには余裕を持たせてあるから、それを出せばもうしばらくは着られる。
――人間の成長は早いな。
はみ出した手首を隠そうとするかのように袖口を引っ張っていると、不意に、この着物を持ってきてくれたときの邪見の言葉が脳裡を過ぎった。
新しい着物にはしゃいでいるりんを見上げながら、どこかしみじみとした口調でそう言った邪見の姿が小さく見えたのを思い出したのだ。
りんはぎゅっと着物の袖を握り締めた。
(……りんだけが、大きくなってる……)
旅を始めた頃は考えたこともなかったことだった。
ただひたすらに、殺生丸の後を着いて行く事だけに必死だったあの頃は、邪見が何かにつけて口喧しく言っていた妖怪と人間の差異など、殆ど耳には入っていなかったのだから。
だが、歳月が過ぎるにつれ、邪見が言っていたことの意味をりんも知るようになった。
かつてはそれほど差が無かった老妖怪との目線の高さが段々と開いていった事や。
地面にぴたりと腹這いになってもらわなければ、その背に乗ることが出来なかった双頭竜に、軽く膝を折ってもらうだけで乗れるようになった事だとか。
そして、以前は思いっきり首を逸らさないと見上げることの出来なかった、かの大妖の横顔を、今では少し仰向いただけで見つめられるようになった事が、りんに彼らと自分との間の時の流れの差異を突きつけることとなったのだ。
この数年、彼らと共にいることで奇異の目を向けられたことも一度や二度ではない。
中には面と向かってりんの『間違い』を正そうとする者や、りんもろとも殺生丸を倒そうとした者などもいた。
だがりんは彼らと袂を分かつことは無く、後者は自らの命でその無謀さのつけを支払うことになった。
そういったことがあると、どうしてもりんの中で拭いきれない不安が影を落とす。
いつまで一緒にいられるのだろうか。
共にあることを許されるのは、いつまでなのだろうか――
何かの弾みで一人になると、そういった考えがじわじわと心に押し寄せてくる。
りんは漠然とした不安感から逃れようとするかのように、立てた膝に顔を埋めた。
そんな彼女の様子を、じっと伺っている視線には気づかないままに。
暫く経ってから、りんは食料調達を再開した。
悩んでじっとしていても物事が解決するわけではない、というのが旅を続けていく中で彼女が身に付けた知恵である。
すぐに食べられるものでなくても、薬草でも見つかれば何かと役に立つ。
「糒もあるし、いざとなったら阿吽に少し遠くの村までつれていってもらえば、また何か交換してもらえるもんね」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、藪の中などを覗き込む。
――へぇ、ここに………が、いるなんてね……
「?」
何かが聞こえたような気がして、りんは顔を上げた。
気配のする方に振り向くと、少し離れた木の側に何かが見えた――ような気がした。
「……?」
眉間に皺を寄せるようにして、じっとそのあたりを見つめていると、今度ははっきりと人影が見えた。
「……誰かいるの?」
この森には殆ど人が入らないと聞いてはいたが、薬草摘みや薪を取りに入ってきている人がいるのかもしれない。
(邪見さまや阿吽と一緒じゃなくてよかったかも…)
内心そう思いながら見つめていると、人影の方でもその気配に気がついたのか、木の陰から姿を見せた。
りんはきょとんとなった。木の陰から現れたのは、彼女と幾つも歳の変わらないような少年だったのだ。
(琥珀とおんなじくらいかな?)
知り合いの少年を思い出して、りんの警戒心が少しほぐれた。
少年は髪を無造作に後ろで括り、変わった形の着物を纏っていた。それは水干と呼ばれる古い時代の装束だったが、りんにそのような事が判る訳もなく、ただ「変わった形の着物だなぁ」と思っただけだった。
りんがじっと見つめていると、少年はにこりと人懐こい笑みを浮かべて近づいてきた。
「何を探してるの?」
「え?」
柔らかな声で質問されて、一瞬りんの反応が遅れる。少年はそんなりんの様子を見て、小さく首を傾げると、何かを見定めようとするかのように、僅かに目を細めた。
「このあたりの子じゃ、ないよね?」
確認するように言われた言葉に、りんは思わず頷いていた。見たことも無い形の着物に見とれていた事に気づいて、少しばつの悪い感じがする。
頷いた後、りんははっとしたように手で口元を押さえていた。
こういった人里近くの森で何かを採ったりするときは、見つからないようにしなければならないことを思い出したのだ。森の木々やそこに生える草は、貧しい村にとって貴重な資源であるので、余所者にそれを採られることを警戒する事はあれど、快く思うことはない。
(…どうしよう…村の人に言いつけられたら…)
りんが困惑しているのを見て取ったのか、少年は微笑したまま軽く身を屈めて彼女の顔を覗きこんだ。
「大丈夫。村の者に言ったりしないよ」
「……え?」
驚いたように見上げてくるりんの眼を見つめて、少年は悪戯っぽい仕草で自分の眼を指差して見せた。釣られたようにりんは彼の眼をじっと見つめ、数瞬後あっと小さく声を上げた。
「眼が、緑色…」
遠目ではそれと判らなかったが、間近で見た少年の瞳は深い緑色をしており、髪もまた漆黒と見紛うほどに深い緑色であったのだ。
どちらも人の持つ色彩ではありえない。
「…人間じゃ、ないの…?」
呆然としたりんの問いかけに、少年がこくりと頷く。
それを見たりんの肩からほっと力が抜ける。その様子を、少年は面白そうに見ていた。
「変わった子だね」
「え?」
くすくすと笑いながらそう言われて、りんがきょとんとなると、少年はますます可笑しそうに声を立てて笑った。
「『人間だ』っていって安心するなら解るけど、『人間じゃない』って言って安心されたのは初めてだよ」
「…あ」
「まあ、私としては嬉しいけど」
再び困ったような表情になったりんを落ち着かせるようにそう言うと、少年はふと何かに気づいたように顔を上げた。その唇に一瞬、今までりんに向けていたそれとは異なる笑みが浮かべられる。
だがりんはそれには気づかずに、何とか説明しようと言葉を捜していた。
「…あのね、あたしの連れのひとも、あ、人じゃないか……えと…その……妖怪、だから……」
しどろもどろになりながらも、何とか説明しようとする。
「へえ、妖怪と一緒にいるの?」
「…うん」
人ならざる少年は、幼い少女が妖怪と共にいると聞いても驚いた様子は無かった。そういった反応はりんにとっては珍しいものであると同時に、どこかしらくすぐったいような嬉しさも含んだものだった。
「すっごく、強くて綺麗なひとなの。それにね、とっても優しいんだよ」
邪見以外の相手に殺生丸のことを話せるのが嬉しくて、りんは花が咲いたような笑顔で少年を見上げた。その輝く瞳を見つめて、少年がぽつりと呟く。
「……君は、不思議な子だね」
「?」
いきなりそんな事を言われて、きょとんとしているりんに笑いかけると、少年は右手を左の水干の袖に入れて、中から赤い実のついた木の枝を取り出した。手妻(手品)のようなその仕草に、りんが驚いたように何度か瞬きをする。
「あげるよ」
「え? ……いいの?」
「ああ。それはとても美味しいから、食べてみるといい」
受け取った木の枝には真っ赤な木の実が三個ついていた。ちょうど赤子の拳くらいの大きさで、とても艶やかで瑞々しく、見るからに美味そうだった。
「いい匂い」
鼻を近づけてみると、何ともいえず甘い匂いがする。
「食べてみるといい」
少年が勧めるのに頷きかけて、りんはふと思いついたように顔を上げた。
「…ねえ、これすぐに傷むような物なの?」
「? いや、枝から離さない限りしばらくは保つよ」
「じゃあ、今食べなくてもいいよね」
「……?」
りんの言葉に少年が怪訝そうな顔になる。それにりんは少し照れくさそうに笑って、
「あのね、とっても綺麗だから、殺生丸さまにも見せたいなあって思って」
「……そう」
「うん」
少年は心なしか残念そうな表情になったが、特にそれ以上勧めるでもなく引き下がった。
少年に礼を言って別れると、りんはそのまま邪見と阿吽が待つ森の奥へと走っていった。
その間にも不思議な果実は甘い匂いでりんを誘惑したが、『殺生丸さまが帰ってきてから』と思って、何とか我慢する。
「邪見さま、阿吽、ただいま!」
元気の良い挨拶と共に戻ってきたりんに、阿吽に凭れて舟を漕いでいた邪見が顔を上げる。
「…んあ? ああ、戻ってきたのか。……ん? 何じゃ、その木の実は」
こしこしと眼を擦りながら立ち上がりかけて、りんが持っている枝の果実に気が付いて訊いてくる。阿吽も興味深そうに二つの首を伸ばして、ふんふんと匂いを嗅いでいた。
「駄目だよ、阿吽。殺生丸さまに見せるんだから。――あのね、森で会ったひとに貰ったの」
双頭竜を軽く制して、邪見に答える。
「貰ったじゃと?」
「うん」
主の名を聞いて首を引っ込めた竜の代わりのように、今度は邪見が身を乗り出してきた。
「…はて、何の実じゃろうな?」
暫く観察した後、怪訝そうな表情で首を傾げる。それが意外だったのか、りんがぱちくりと瞬きをする。
「邪見さまも知らないの?」
「ぐっ……う、煩いわい! 生り物の種類なんぞ、いちいち覚えとる訳が無いだろうが! 人間の食い物など、わしらには必要ないんじゃからな!」
図星を突かれた邪見が怒鳴ると、りんはああと納得したように頷いた。
「そういえば、殺生丸さまも邪見さまも、ごはん食べないよね。……お酒飲んでるのは見たことあるけど」
思い返せば、初めて会ったときにも「人間の食い物は口に合わない」とか言っていた覚えがある。
「……でも、これくれたひと、人間じゃなかったよ」
苦し紛れの邪見の台詞に、一人で納得していたりんがぽつりと呟いたのを聞いて、邪見の眼が見開かれる。
「ななな、何じゃと!?」
緑色の顔から血の気が引いて、こころなしか青味が増したように見える。慌てる邪見とは裏腹に、りんはきょとんとしていた。
「い、一体、どのような者から貰ったのじゃ?」
「あのね、髪と眼が緑だったよ」
「髪と眼が?」
「うん。…何だか、変わった形の着物を着てて……」
説明しかけて、ふと何かに気が付いたように邪見の着物を見つめる。
「あ、邪見さまの着物に、少し似てるかも。……それから…りんより、少し大きかった。琥珀とおんなじくらいだと思うよ」
それから、とりんが自分の感じた印象を一所懸命に説明していると、邪見はますます怪訝そうな表情になった。
「……木霊、ではないようじゃな。はて…一体、何者じゃろう?」
「木霊さんじゃないの?」
少年が手妻のように木の枝を取り出したのを見て、てっきり植物関係の妖怪だと思っていたりんが小首を傾げる。
「昨日教えたじゃろうが。木霊は子供の姿をしておると」
「でも、りんとそんなに変わらないくらいだったよ」
それならば十分「子供」の範疇に入るのではないだろうか、と思ってそう言うが、邪見は頭を振ってそれを否定した。
「木霊は、本当の幼子の姿なんじゃ。……人間でいうなら、三つかそこらくらいのな」
それを聞いてりんも納得した。それならば確かに、あの少年とはかなり違う。
「嫌な感じはしなかったけど……」
りんの言葉に、邪見はがっくりと肩を落とした。
悪意が無いからといって、その相手が良い者だとは限らないのが妖怪の常であるというのに、この少女は未だにそのあたりのことを理解していないのだ。
ここはやはり一言言っておくべきだろうかと、邪見が口を開きかけたとき、阿吽が何かに気が付いたように顔を上げた。
「どうした? 阿吽」
それに釣られたようにりんと邪見もそちらに顔を向けて、同時に主の名を叫んでいた。
「殺生丸さま!」
一行の主が、そこに佇んでいた。
明るいうちだと村人が入ってくるかもしれないから、という理由で邪見は阿吽と共に森の奥で待っている。
しばらく探し回ったが、見つかったのは酸味の強い草の実が少しだけで、腹が膨れるようなものではない。
少し疲れたので、樹の根元に腰を下ろして休んでいると、ふと着物から覗く手足に目が行った。
「……着物、小さくなってるなぁ……」
今着ている着物は、邪見が何ヶ月か前に調達してきてくれたものだ。何でも、機織などを専門にしている妖怪の手になるものとかで、ちょっとやそっとでは破れたりしないが、大きさはどうしようもない。とはいっても、りんが育ち盛りであることを見越して、肩や裾の縫い上げには余裕を持たせてあるから、それを出せばもうしばらくは着られる。
――人間の成長は早いな。
はみ出した手首を隠そうとするかのように袖口を引っ張っていると、不意に、この着物を持ってきてくれたときの邪見の言葉が脳裡を過ぎった。
新しい着物にはしゃいでいるりんを見上げながら、どこかしみじみとした口調でそう言った邪見の姿が小さく見えたのを思い出したのだ。
りんはぎゅっと着物の袖を握り締めた。
(……りんだけが、大きくなってる……)
旅を始めた頃は考えたこともなかったことだった。
ただひたすらに、殺生丸の後を着いて行く事だけに必死だったあの頃は、邪見が何かにつけて口喧しく言っていた妖怪と人間の差異など、殆ど耳には入っていなかったのだから。
だが、歳月が過ぎるにつれ、邪見が言っていたことの意味をりんも知るようになった。
かつてはそれほど差が無かった老妖怪との目線の高さが段々と開いていった事や。
地面にぴたりと腹這いになってもらわなければ、その背に乗ることが出来なかった双頭竜に、軽く膝を折ってもらうだけで乗れるようになった事だとか。
そして、以前は思いっきり首を逸らさないと見上げることの出来なかった、かの大妖の横顔を、今では少し仰向いただけで見つめられるようになった事が、りんに彼らと自分との間の時の流れの差異を突きつけることとなったのだ。
この数年、彼らと共にいることで奇異の目を向けられたことも一度や二度ではない。
中には面と向かってりんの『間違い』を正そうとする者や、りんもろとも殺生丸を倒そうとした者などもいた。
だがりんは彼らと袂を分かつことは無く、後者は自らの命でその無謀さのつけを支払うことになった。
そういったことがあると、どうしてもりんの中で拭いきれない不安が影を落とす。
いつまで一緒にいられるのだろうか。
共にあることを許されるのは、いつまでなのだろうか――
何かの弾みで一人になると、そういった考えがじわじわと心に押し寄せてくる。
りんは漠然とした不安感から逃れようとするかのように、立てた膝に顔を埋めた。
そんな彼女の様子を、じっと伺っている視線には気づかないままに。
暫く経ってから、りんは食料調達を再開した。
悩んでじっとしていても物事が解決するわけではない、というのが旅を続けていく中で彼女が身に付けた知恵である。
すぐに食べられるものでなくても、薬草でも見つかれば何かと役に立つ。
「糒もあるし、いざとなったら阿吽に少し遠くの村までつれていってもらえば、また何か交換してもらえるもんね」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、藪の中などを覗き込む。
――へぇ、ここに………が、いるなんてね……
「?」
何かが聞こえたような気がして、りんは顔を上げた。
気配のする方に振り向くと、少し離れた木の側に何かが見えた――ような気がした。
「……?」
眉間に皺を寄せるようにして、じっとそのあたりを見つめていると、今度ははっきりと人影が見えた。
「……誰かいるの?」
この森には殆ど人が入らないと聞いてはいたが、薬草摘みや薪を取りに入ってきている人がいるのかもしれない。
(邪見さまや阿吽と一緒じゃなくてよかったかも…)
内心そう思いながら見つめていると、人影の方でもその気配に気がついたのか、木の陰から姿を見せた。
りんはきょとんとなった。木の陰から現れたのは、彼女と幾つも歳の変わらないような少年だったのだ。
(琥珀とおんなじくらいかな?)
知り合いの少年を思い出して、りんの警戒心が少しほぐれた。
少年は髪を無造作に後ろで括り、変わった形の着物を纏っていた。それは水干と呼ばれる古い時代の装束だったが、りんにそのような事が判る訳もなく、ただ「変わった形の着物だなぁ」と思っただけだった。
りんがじっと見つめていると、少年はにこりと人懐こい笑みを浮かべて近づいてきた。
「何を探してるの?」
「え?」
柔らかな声で質問されて、一瞬りんの反応が遅れる。少年はそんなりんの様子を見て、小さく首を傾げると、何かを見定めようとするかのように、僅かに目を細めた。
「このあたりの子じゃ、ないよね?」
確認するように言われた言葉に、りんは思わず頷いていた。見たことも無い形の着物に見とれていた事に気づいて、少しばつの悪い感じがする。
頷いた後、りんははっとしたように手で口元を押さえていた。
こういった人里近くの森で何かを採ったりするときは、見つからないようにしなければならないことを思い出したのだ。森の木々やそこに生える草は、貧しい村にとって貴重な資源であるので、余所者にそれを採られることを警戒する事はあれど、快く思うことはない。
(…どうしよう…村の人に言いつけられたら…)
りんが困惑しているのを見て取ったのか、少年は微笑したまま軽く身を屈めて彼女の顔を覗きこんだ。
「大丈夫。村の者に言ったりしないよ」
「……え?」
驚いたように見上げてくるりんの眼を見つめて、少年は悪戯っぽい仕草で自分の眼を指差して見せた。釣られたようにりんは彼の眼をじっと見つめ、数瞬後あっと小さく声を上げた。
「眼が、緑色…」
遠目ではそれと判らなかったが、間近で見た少年の瞳は深い緑色をしており、髪もまた漆黒と見紛うほどに深い緑色であったのだ。
どちらも人の持つ色彩ではありえない。
「…人間じゃ、ないの…?」
呆然としたりんの問いかけに、少年がこくりと頷く。
それを見たりんの肩からほっと力が抜ける。その様子を、少年は面白そうに見ていた。
「変わった子だね」
「え?」
くすくすと笑いながらそう言われて、りんがきょとんとなると、少年はますます可笑しそうに声を立てて笑った。
「『人間だ』っていって安心するなら解るけど、『人間じゃない』って言って安心されたのは初めてだよ」
「…あ」
「まあ、私としては嬉しいけど」
再び困ったような表情になったりんを落ち着かせるようにそう言うと、少年はふと何かに気づいたように顔を上げた。その唇に一瞬、今までりんに向けていたそれとは異なる笑みが浮かべられる。
だがりんはそれには気づかずに、何とか説明しようと言葉を捜していた。
「…あのね、あたしの連れのひとも、あ、人じゃないか……えと…その……妖怪、だから……」
しどろもどろになりながらも、何とか説明しようとする。
「へえ、妖怪と一緒にいるの?」
「…うん」
人ならざる少年は、幼い少女が妖怪と共にいると聞いても驚いた様子は無かった。そういった反応はりんにとっては珍しいものであると同時に、どこかしらくすぐったいような嬉しさも含んだものだった。
「すっごく、強くて綺麗なひとなの。それにね、とっても優しいんだよ」
邪見以外の相手に殺生丸のことを話せるのが嬉しくて、りんは花が咲いたような笑顔で少年を見上げた。その輝く瞳を見つめて、少年がぽつりと呟く。
「……君は、不思議な子だね」
「?」
いきなりそんな事を言われて、きょとんとしているりんに笑いかけると、少年は右手を左の水干の袖に入れて、中から赤い実のついた木の枝を取り出した。手妻(手品)のようなその仕草に、りんが驚いたように何度か瞬きをする。
「あげるよ」
「え? ……いいの?」
「ああ。それはとても美味しいから、食べてみるといい」
受け取った木の枝には真っ赤な木の実が三個ついていた。ちょうど赤子の拳くらいの大きさで、とても艶やかで瑞々しく、見るからに美味そうだった。
「いい匂い」
鼻を近づけてみると、何ともいえず甘い匂いがする。
「食べてみるといい」
少年が勧めるのに頷きかけて、りんはふと思いついたように顔を上げた。
「…ねえ、これすぐに傷むような物なの?」
「? いや、枝から離さない限りしばらくは保つよ」
「じゃあ、今食べなくてもいいよね」
「……?」
りんの言葉に少年が怪訝そうな顔になる。それにりんは少し照れくさそうに笑って、
「あのね、とっても綺麗だから、殺生丸さまにも見せたいなあって思って」
「……そう」
「うん」
少年は心なしか残念そうな表情になったが、特にそれ以上勧めるでもなく引き下がった。
少年に礼を言って別れると、りんはそのまま邪見と阿吽が待つ森の奥へと走っていった。
その間にも不思議な果実は甘い匂いでりんを誘惑したが、『殺生丸さまが帰ってきてから』と思って、何とか我慢する。
「邪見さま、阿吽、ただいま!」
元気の良い挨拶と共に戻ってきたりんに、阿吽に凭れて舟を漕いでいた邪見が顔を上げる。
「…んあ? ああ、戻ってきたのか。……ん? 何じゃ、その木の実は」
こしこしと眼を擦りながら立ち上がりかけて、りんが持っている枝の果実に気が付いて訊いてくる。阿吽も興味深そうに二つの首を伸ばして、ふんふんと匂いを嗅いでいた。
「駄目だよ、阿吽。殺生丸さまに見せるんだから。――あのね、森で会ったひとに貰ったの」
双頭竜を軽く制して、邪見に答える。
「貰ったじゃと?」
「うん」
主の名を聞いて首を引っ込めた竜の代わりのように、今度は邪見が身を乗り出してきた。
「…はて、何の実じゃろうな?」
暫く観察した後、怪訝そうな表情で首を傾げる。それが意外だったのか、りんがぱちくりと瞬きをする。
「邪見さまも知らないの?」
「ぐっ……う、煩いわい! 生り物の種類なんぞ、いちいち覚えとる訳が無いだろうが! 人間の食い物など、わしらには必要ないんじゃからな!」
図星を突かれた邪見が怒鳴ると、りんはああと納得したように頷いた。
「そういえば、殺生丸さまも邪見さまも、ごはん食べないよね。……お酒飲んでるのは見たことあるけど」
思い返せば、初めて会ったときにも「人間の食い物は口に合わない」とか言っていた覚えがある。
「……でも、これくれたひと、人間じゃなかったよ」
苦し紛れの邪見の台詞に、一人で納得していたりんがぽつりと呟いたのを聞いて、邪見の眼が見開かれる。
「ななな、何じゃと!?」
緑色の顔から血の気が引いて、こころなしか青味が増したように見える。慌てる邪見とは裏腹に、りんはきょとんとしていた。
「い、一体、どのような者から貰ったのじゃ?」
「あのね、髪と眼が緑だったよ」
「髪と眼が?」
「うん。…何だか、変わった形の着物を着てて……」
説明しかけて、ふと何かに気が付いたように邪見の着物を見つめる。
「あ、邪見さまの着物に、少し似てるかも。……それから…りんより、少し大きかった。琥珀とおんなじくらいだと思うよ」
それから、とりんが自分の感じた印象を一所懸命に説明していると、邪見はますます怪訝そうな表情になった。
「……木霊、ではないようじゃな。はて…一体、何者じゃろう?」
「木霊さんじゃないの?」
少年が手妻のように木の枝を取り出したのを見て、てっきり植物関係の妖怪だと思っていたりんが小首を傾げる。
「昨日教えたじゃろうが。木霊は子供の姿をしておると」
「でも、りんとそんなに変わらないくらいだったよ」
それならば十分「子供」の範疇に入るのではないだろうか、と思ってそう言うが、邪見は頭を振ってそれを否定した。
「木霊は、本当の幼子の姿なんじゃ。……人間でいうなら、三つかそこらくらいのな」
それを聞いてりんも納得した。それならば確かに、あの少年とはかなり違う。
「嫌な感じはしなかったけど……」
りんの言葉に、邪見はがっくりと肩を落とした。
悪意が無いからといって、その相手が良い者だとは限らないのが妖怪の常であるというのに、この少女は未だにそのあたりのことを理解していないのだ。
ここはやはり一言言っておくべきだろうかと、邪見が口を開きかけたとき、阿吽が何かに気が付いたように顔を上げた。
「どうした? 阿吽」
それに釣られたようにりんと邪見もそちらに顔を向けて、同時に主の名を叫んでいた。
「殺生丸さま!」
一行の主が、そこに佇んでいた。
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2005/09/28 |
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神隠しの森 〈1〉
前回連載時、1〜3回分を纏めました。
[神隠しの森 〈1〉] Read More↓
神隠しの森
おいで おいで こちらにおいで
たそがれどきには あちらがちかい
おいき おいき あちらにおいき
ゆうぐれどきには こちらがとおい
ゆくな ゆくな あちらにいくな
ゆうまぐれには あちらがちかい
おもどり おもどり こちらにおもどり
おうまがどきには とおではならぬ
あちらとこちらの さかいがずれる
こちらとあちらの へだてがとれる
「かみかくしのもり?」
村人の言葉に、少女はきょとんと首を傾げた。薬草と交換してもらった糒(ほしいい)の包みを懐にしまって、男が指差す方向を見つめる。
「何だ、知らねえだか? あそこは『神隠しの森』って言ってな、日が落ちたら、絶対に入っちゃなんねえとこなんだぞ」
「ふうん?」
それでもまだ腑に落ちないような少女の様子に、壮年の男は、むっとしたように眉を寄せた。
「嬢ちゃんは旅のもんだから、知らんだろうがな。日が暮れた後もあそこにおったばっかりに、森の魔物に喰われちまった子が、何人もいるんだぞ」
どれだけ探しても子供の骸(むくろ)は見つからず、ただ着ていた着物の切れ端が見つかっただけだった、とか、その切れ端は血で汚れていたなどというような事を、大袈裟な身振りを交えて話す男に、少女は困ったような目を向けた。
「森の魔物は、日のあるうちは何にもしねえ。だがな、日が暮れちまったら、森の中にいちゃいけねえんだ。嬢ちゃんのつれにも、ちゃあんと伝えるんだぞ」
「……うん」
曖昧な表情で頷くと、少女はぺこりと頭を下げて、連れが待つという森の方へと駆け出していった。
地元の者が「神隠しの森」と呼ぶ森の中を少女は進んでいた。途中、何かを確認するように木の根元を見ながら、徐々に道から外れて奥のほうに入っていく。その様子には不安げなものはなく、彼女が確信を持ってそう進んでいるのは間違いなかった。
やがて、樵や薬草摘みの者でさえも分け入ることを躊躇うような奥深くまで進むと、少女の顔がほっとしたようなものになる。
あと少しで連れの許へ戻れる。
そう思って足を速めた少女の近くの藪の中で、がさり、と何か大きな生き物の動く気配がした。
少女の足が止まり、大きな黒い眼が何かを探るように、じっと藪を見つめる。
「…阿吽?」
確認するように呼びかける声に応えるように、大きく藪が揺れ、異形の獣の首が二本突き出された。その頭部は緑色の鱗に覆われ、口元には鋭い牙が見え隠れしている。そしてよくよく見てみると、その首は二つとも同じ胴体から生えていた。この獣は竜の一種、それも双頭竜であった。
「阿吽」
普通の人の子であれば、悲鳴を上げて逃げ出すところであるが、少女は笑ってその竜に両手を差し出した。竜も二つの首を伸ばして、少女の小さな手が鱗に覆われた鼻面を撫でるのに任せた。
「迎えに来てくれたの? ありがとう」
どういたしまして、とでも言うかのように右側(少女から見て左側)の首が彼女の肩に乗せられる。
竜の二つの首に挟まれるようにして少女が向かった先では、緑色の小妖怪がうろうろと所在無げに歩き回っていた。
「邪見さま、ただいまぁ」
少女の声に妖怪は振り返ると、すかさず一言「遅い!」と怒鳴りつけた。
「大体、たかが物々交換にいったいどれだけかかっておるんじゃ」
「りんのせいじゃないもん」
早速始まった邪見のお小言に、りんが可愛らしく唇を尖らせて言い返す。それで思い出したのか、「ねえねえ」と問いかける。
「この森ね、おじさんが『かみかくしのもり』って言ってたけど、邪見さまは知ってた?」
りんの質問に、ふんと馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、当たり前じゃと胸を張ってみせる。
「ここはな、妖(あやかし)達の間で、『境の森』として知られておる場所なのじゃ」
「さかいのもり? 『かみかくしのもり』じゃないの?」
「それは人間どもの呼ぶ名じゃ。わしらは『境の森』と呼んでおる」
「ふうん」
小首を傾げるりんに、邪見は更に説明を続けた。
「まあ、呼び名はどうでも良いわ。…とにかく、この森は妖怪たちの領域と接しておってな、そのせいで人里の近くにあるが、人間どももあまり近づこうとせん。……まあ、それでも百年に一人か二人は引きずり込まれる奴がおるらしいが」
「ひとりかふたり? そのくらいなの?」
「当たり前じゃ、『門』が開くときに行き合わせる人間なんぞ、そうおる訳が無いわ」
『門』というのは一体何だろうかと思ったりんだったが、それは後回しにすることにして、最初に気になったことを口にする。
「でも、おじさんの話だと、子供とかがたくさん魔物に食べられちゃったって…」
「子供を近づけんために、大袈裟に言っておるに決まっておろうが」
「でも、着物に血がついてたって、言ってたよ」
「…まあ、もし何かに喰われたのだとしても、おおかた森の獣じゃろうて。人喰いの類は、あんまりここにはおらんからの」
「そうなの?」
「人間のお前には解らんだろうがな、ああいった族(やから)はあまり『境の森』にはおらんものなんじゃ」
「ふうん…じゃあ、どういう妖怪さんがいるの?」
「まあ、色々じゃが。大体、木霊(こだま)のような、植物のものが多いな」
心底感心したように聞くりんの様子に、邪見は幾分か誇らしげな気持で胸を張ってみせた。
日頃、主(あるじ)に(文字通り)踏んだり蹴ったりの目に合わされている身としては、こういった些細なことで感心されるのは気分のいいものである。りんの子供ならではの無邪気な無神経さには、時折ひどく苛々させられることもあるが、基本的な性格が素直に出来ている彼女に懐かれるのはそう悪いものではなかった。
……もっとも、りんが一番懐いているのが、日頃あれこれと世話をしてやっている自分ではなくて、あの無愛想極まりない主であることを考えると、些か複雑な気分になるのだったが。
「ねえ、木霊さんてどんな妖怪さんなの?」
「そうじゃな…まあ、種類によって様々じゃが、大体子供のような姿をしておるな」
「……前に会った事のある、木のお爺ちゃんとは違うの?」
りんにそう訊かれて、一瞬邪見は考え込み、すぐに朴仙翁の事かと思い至って「違うな」と答えた。
「朴仙翁はな、木そのものだが、木霊は木の精気が凝って生まれたもんなんじゃ。……まあ、いわば木の実みたいなもんだな。生えている場所から動けん朴仙翁とかと違って、木霊はある程度自由に動ける。ただし、元になった木と木霊は繋がっておるから、木の方にもしものことがあったら、木霊もただではすまん。本体の木に何かせん限り、争いごとに首を突っ込んだりしないおとなしい連中じゃ」
りんが良く解らないような顔をしていたので、解りやすいように言い換えて更に付け加える。
一所懸命に邪見の話を聞いていたりんはといえば、いきなり大量に詰めこまれた知識に、理解力の方が追いついてない状態であった。それでも何とか頭の中である程度の整理をつける。
「じゃあ、ここにいても危なくないんだ」
「当たり前じゃ。そもそも殺生丸さまがおられるのに、『危ない』などということがあるものか」
ふん、と鼻息を吐き出すと、我が事のように自慢げに言ってのける。
「でも殺生丸さま、いつ戻ってくるの?」
りんの素朴な質問に、邪見がぐっと詰まる。
例によって一人でふらりと出かけた殺生丸を見送ったのが、二日前の事である。それから二人と一匹はここで主が戻ってくるのを待っているのだ。別に何処か別の場所に移動していても構わないのだが(彼の鼻にかかれば居場所などすぐに知れるのだから)、勝手に動くのはやはり憚られたし、それに何より、もし勝手に動いたことでりんにもしもの事があったらと思うと、自然と邪見の思考は『この場所で待つ』という選択を弾き出したのである。
それは、かつてこの少女が一行に加わった当初のような、打算的なものばかりではなくて(多少はそれもあるが)、彼女の身を案じる思いからでもあった。
「糒、少し多めに交換してもらったけど、あんまり何度もあそこには行けないよねぇ……」
何の気なしに質問はしたが、別に答えを期待していた訳ではなかったのか、りんは糒の包みを見つめて少し考え込む様子だった。
今回のように人里近くに留まるとなると、問題になるのがりんの食料確保である。何度も同じ場所の畑を荒らすのは、貧しい村に育ったりんにはやはり気が咎める事であったし、そんなことをしたら見つかりやすくなってしまうのも事実であった。そのため最近は、旅の途中で見つけた珍しい薬草などを食料や僅かな金銭と交換したり、といったこともするようになっている。
もっともこの方法も、同じ村で何度も続けては使えないのが問題ではあったのだが。
時期的に野山での食糧調達にもそう困ることは無いが、やはりある程度の量は確保しておきたい、というのが育ち盛りで食べ盛りの少女の偽らざる本音であった。
「後で何か探せばよかろう」
「……うん」
りんは曖昧な返事をすると、包みを懐にしまった。
その様子に何かしら、違和感のようなものを感じながらも、邪見はその事に意識を向けないようにした。
おいで おいで こちらにおいで
たそがれどきには あちらがちかい
おいき おいき あちらにおいき
ゆうぐれどきには こちらがとおい
ゆくな ゆくな あちらにいくな
ゆうまぐれには あちらがちかい
おもどり おもどり こちらにおもどり
おうまがどきには とおではならぬ
あちらとこちらの さかいがずれる
こちらとあちらの へだてがとれる
「かみかくしのもり?」
村人の言葉に、少女はきょとんと首を傾げた。薬草と交換してもらった糒(ほしいい)の包みを懐にしまって、男が指差す方向を見つめる。
「何だ、知らねえだか? あそこは『神隠しの森』って言ってな、日が落ちたら、絶対に入っちゃなんねえとこなんだぞ」
「ふうん?」
それでもまだ腑に落ちないような少女の様子に、壮年の男は、むっとしたように眉を寄せた。
「嬢ちゃんは旅のもんだから、知らんだろうがな。日が暮れた後もあそこにおったばっかりに、森の魔物に喰われちまった子が、何人もいるんだぞ」
どれだけ探しても子供の骸(むくろ)は見つからず、ただ着ていた着物の切れ端が見つかっただけだった、とか、その切れ端は血で汚れていたなどというような事を、大袈裟な身振りを交えて話す男に、少女は困ったような目を向けた。
「森の魔物は、日のあるうちは何にもしねえ。だがな、日が暮れちまったら、森の中にいちゃいけねえんだ。嬢ちゃんのつれにも、ちゃあんと伝えるんだぞ」
「……うん」
曖昧な表情で頷くと、少女はぺこりと頭を下げて、連れが待つという森の方へと駆け出していった。
地元の者が「神隠しの森」と呼ぶ森の中を少女は進んでいた。途中、何かを確認するように木の根元を見ながら、徐々に道から外れて奥のほうに入っていく。その様子には不安げなものはなく、彼女が確信を持ってそう進んでいるのは間違いなかった。
やがて、樵や薬草摘みの者でさえも分け入ることを躊躇うような奥深くまで進むと、少女の顔がほっとしたようなものになる。
あと少しで連れの許へ戻れる。
そう思って足を速めた少女の近くの藪の中で、がさり、と何か大きな生き物の動く気配がした。
少女の足が止まり、大きな黒い眼が何かを探るように、じっと藪を見つめる。
「…阿吽?」
確認するように呼びかける声に応えるように、大きく藪が揺れ、異形の獣の首が二本突き出された。その頭部は緑色の鱗に覆われ、口元には鋭い牙が見え隠れしている。そしてよくよく見てみると、その首は二つとも同じ胴体から生えていた。この獣は竜の一種、それも双頭竜であった。
「阿吽」
普通の人の子であれば、悲鳴を上げて逃げ出すところであるが、少女は笑ってその竜に両手を差し出した。竜も二つの首を伸ばして、少女の小さな手が鱗に覆われた鼻面を撫でるのに任せた。
「迎えに来てくれたの? ありがとう」
どういたしまして、とでも言うかのように右側(少女から見て左側)の首が彼女の肩に乗せられる。
竜の二つの首に挟まれるようにして少女が向かった先では、緑色の小妖怪がうろうろと所在無げに歩き回っていた。
「邪見さま、ただいまぁ」
少女の声に妖怪は振り返ると、すかさず一言「遅い!」と怒鳴りつけた。
「大体、たかが物々交換にいったいどれだけかかっておるんじゃ」
「りんのせいじゃないもん」
早速始まった邪見のお小言に、りんが可愛らしく唇を尖らせて言い返す。それで思い出したのか、「ねえねえ」と問いかける。
「この森ね、おじさんが『かみかくしのもり』って言ってたけど、邪見さまは知ってた?」
りんの質問に、ふんと馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、当たり前じゃと胸を張ってみせる。
「ここはな、妖(あやかし)達の間で、『境の森』として知られておる場所なのじゃ」
「さかいのもり? 『かみかくしのもり』じゃないの?」
「それは人間どもの呼ぶ名じゃ。わしらは『境の森』と呼んでおる」
「ふうん」
小首を傾げるりんに、邪見は更に説明を続けた。
「まあ、呼び名はどうでも良いわ。…とにかく、この森は妖怪たちの領域と接しておってな、そのせいで人里の近くにあるが、人間どももあまり近づこうとせん。……まあ、それでも百年に一人か二人は引きずり込まれる奴がおるらしいが」
「ひとりかふたり? そのくらいなの?」
「当たり前じゃ、『門』が開くときに行き合わせる人間なんぞ、そうおる訳が無いわ」
『門』というのは一体何だろうかと思ったりんだったが、それは後回しにすることにして、最初に気になったことを口にする。
「でも、おじさんの話だと、子供とかがたくさん魔物に食べられちゃったって…」
「子供を近づけんために、大袈裟に言っておるに決まっておろうが」
「でも、着物に血がついてたって、言ってたよ」
「…まあ、もし何かに喰われたのだとしても、おおかた森の獣じゃろうて。人喰いの類は、あんまりここにはおらんからの」
「そうなの?」
「人間のお前には解らんだろうがな、ああいった族(やから)はあまり『境の森』にはおらんものなんじゃ」
「ふうん…じゃあ、どういう妖怪さんがいるの?」
「まあ、色々じゃが。大体、木霊(こだま)のような、植物のものが多いな」
心底感心したように聞くりんの様子に、邪見は幾分か誇らしげな気持で胸を張ってみせた。
日頃、主(あるじ)に(文字通り)踏んだり蹴ったりの目に合わされている身としては、こういった些細なことで感心されるのは気分のいいものである。りんの子供ならではの無邪気な無神経さには、時折ひどく苛々させられることもあるが、基本的な性格が素直に出来ている彼女に懐かれるのはそう悪いものではなかった。
……もっとも、りんが一番懐いているのが、日頃あれこれと世話をしてやっている自分ではなくて、あの無愛想極まりない主であることを考えると、些か複雑な気分になるのだったが。
「ねえ、木霊さんてどんな妖怪さんなの?」
「そうじゃな…まあ、種類によって様々じゃが、大体子供のような姿をしておるな」
「……前に会った事のある、木のお爺ちゃんとは違うの?」
りんにそう訊かれて、一瞬邪見は考え込み、すぐに朴仙翁の事かと思い至って「違うな」と答えた。
「朴仙翁はな、木そのものだが、木霊は木の精気が凝って生まれたもんなんじゃ。……まあ、いわば木の実みたいなもんだな。生えている場所から動けん朴仙翁とかと違って、木霊はある程度自由に動ける。ただし、元になった木と木霊は繋がっておるから、木の方にもしものことがあったら、木霊もただではすまん。本体の木に何かせん限り、争いごとに首を突っ込んだりしないおとなしい連中じゃ」
りんが良く解らないような顔をしていたので、解りやすいように言い換えて更に付け加える。
一所懸命に邪見の話を聞いていたりんはといえば、いきなり大量に詰めこまれた知識に、理解力の方が追いついてない状態であった。それでも何とか頭の中である程度の整理をつける。
「じゃあ、ここにいても危なくないんだ」
「当たり前じゃ。そもそも殺生丸さまがおられるのに、『危ない』などということがあるものか」
ふん、と鼻息を吐き出すと、我が事のように自慢げに言ってのける。
「でも殺生丸さま、いつ戻ってくるの?」
りんの素朴な質問に、邪見がぐっと詰まる。
例によって一人でふらりと出かけた殺生丸を見送ったのが、二日前の事である。それから二人と一匹はここで主が戻ってくるのを待っているのだ。別に何処か別の場所に移動していても構わないのだが(彼の鼻にかかれば居場所などすぐに知れるのだから)、勝手に動くのはやはり憚られたし、それに何より、もし勝手に動いたことでりんにもしもの事があったらと思うと、自然と邪見の思考は『この場所で待つ』という選択を弾き出したのである。
それは、かつてこの少女が一行に加わった当初のような、打算的なものばかりではなくて(多少はそれもあるが)、彼女の身を案じる思いからでもあった。
「糒、少し多めに交換してもらったけど、あんまり何度もあそこには行けないよねぇ……」
何の気なしに質問はしたが、別に答えを期待していた訳ではなかったのか、りんは糒の包みを見つめて少し考え込む様子だった。
今回のように人里近くに留まるとなると、問題になるのがりんの食料確保である。何度も同じ場所の畑を荒らすのは、貧しい村に育ったりんにはやはり気が咎める事であったし、そんなことをしたら見つかりやすくなってしまうのも事実であった。そのため最近は、旅の途中で見つけた珍しい薬草などを食料や僅かな金銭と交換したり、といったこともするようになっている。
もっともこの方法も、同じ村で何度も続けては使えないのが問題ではあったのだが。
時期的に野山での食糧調達にもそう困ることは無いが、やはりある程度の量は確保しておきたい、というのが育ち盛りで食べ盛りの少女の偽らざる本音であった。
「後で何か探せばよかろう」
「……うん」
りんは曖昧な返事をすると、包みを懐にしまった。
その様子に何かしら、違和感のようなものを感じながらも、邪見はその事に意識を向けないようにした。
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2005/09/28 |
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