パラレル(義兄妹)
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季節外れもいいところですが…
思いっきり時期を外してしまいましたが、殺りん現代版、義兄妹設定でのバレンタインネタです。
タイトルに何の捻りもなくて申し訳ないです…(−−;
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Valentine Day
世の中にはイベント事にやたらめったに張り切る人間もいれば、全くといってもいいほど興味を示さない人間がいる。
当年とって二十三歳の犬塚殺生丸は、(今更言うまでもないだろうが)後者に属するタイプであった。
従って今までは、周りの人間が(実の父親も含めて!)どれだけ騒ごうが、見事なまでに無関心であったのだが、ここ最近になって、その状況に多少の変化が現れてきていた。
一年半程前に、長年男やもめを通してきた父親が再婚したのである。相手もまた母子家庭だったので(正確には叔母と姪だったが)、義母と義妹が出来たのであった。それだけなら彼の生活環境に何ら影響は無かったであろうが、様々な事情が複雑に絡み合った挙句に、その義妹と恋仲になったため、状況に変化が生じたのである。
といっても、(誕生日はともかくとして)世間一般における「恋人同士のイベント」という代物に全く興味が無い、という基本的な性格が変わった訳ではないので、恋人としては些か難物である事には変わりは無かったのであるが。
二月十四日。言わずと知れたバレンタインデーの午後、りんは学生鞄と一緒に、膨らんだ紙袋を少し持ち難そうに提げて家路についていた。
(……一旦、家に置いてこないと、荷物になるよね)
今日は学校帰りに直接殺生丸の所に行って、チョコレートを渡そうと思っていたのだが、予想外に荷物が増えたため、一度家に帰ってから向かった方が良さそうだ。
(お兄さん、帰ってるかな)
駅に着いたら、メールして確かめよう、と思いつつ歩いていると、後ろで車のクラクションが鳴るのが聞こえた。聞き覚えのない音だったので、気にも留めずに歩いていると、その背に今度は声がかけられた。
「犬塚さん」
「……?」
珍しい呼ばれ方に――友達や両親の知り合いは大抵彼女を名前で呼ぶので――、少し怪訝な表情をしながらも振り向くと、路肩に止められた車の運転席の窓から、若い男が笑顔で身を乗り出していた。
「ああ、やっぱり、殺生丸の妹さんでしたね」
にこりと人懐こい笑顔でそう言われて、りんは漸く相手の顔を記憶の中から拾い出すことが出来た。
「……えっと……お兄さんの、大学のお友達の方、ですよね?」
「ええ。学祭の時にお会いしましたね」
たどたどしく確認してくるりんに、人当たりの良い笑顔で頷いてみせる。その笑顔を見ながら、名前を思い出そうとしているりんの様子を見て取ったのか、男は自分から口を開いた。
「弥勒ですよ。――以前お会いした時は、まともに名乗ってませんでしたね、そういえば」
小さく苦笑してそう言う彼に、りんは慌ててかぶりを振った。
「いえ、あの……あたしが、ちゃんと覚えてなかったから……」
申し訳無さそうにそう言ってくる少女の様子に、弥勒は少し考え込むような目線を向けた。
「――良かったら、乗って行きませんか? 家まで送りますよ」
「え?」
弥勒の突然の申し出に、りんが目をぱちくりとさせる。
その反応を新鮮な感覚で眺めながら、弥勒は更に畳み掛けるように言葉を続けた。
「ご心配なく。私は自分の身が可愛いですからね。――殺生丸の妹さんに、何かしようなんて命知らずな事は考えてませんよ」
「……でも、」
荷物が多いので、正直、その申し出はありがたかったのだが、義兄が知ったら決していい顔をしないであろう事は容易く予想できるだけに、りんの反応はどうしても躊躇いがちになってしまった。
「それに、今ならもれなく特典も付いてきます」
「特典?」
どこぞのTVショッピングの宣伝文句のような台詞に、りんの顔がますます怪訝そうなものになる。それを見ながら、弥勒は――それこそセールスマンばりの笑顔で――手の内を明かしてみせた。
「殺生丸の高校時代のエピソードとか……話せる範囲内に限られますが、いかがですか?」
「え……」
それを聞いて、りんが考え込むような表情になる。
好きな人の事は、なるべく沢山知っておきたい、というのはごく自然な感覚である。殺生丸はあまり自分の事を話すような男ではないので、彼についての情報はどうしても少なくなる。実父の闘牙にしても、殺生丸が子供の頃は仕事が忙しく、あまり一緒に過ごしてはいなかったため、彼について充分に知っているとは言い難い。
にこにこと人好きのする笑顔を浮かべている弥勒の顔を暫くじっと見つめてから、りんは思い切ったようにこくりと頷いた。
五分後、とりあえずは自宅に送ってもらうことで話が纏まり、りんは弥勒の車の助手席に座っていた。
「……それにしても、大荷物ですね」
「ええ……」
りんが膝の上に抱えている紙袋をちらりと見やってそう言う弥勒に、りんは楽なように荷物を抱えなおしながらそう答えた。
袋の中身が色とりどりにラッピングされた可愛らしい包みであるのを確認すると、弥勒はハンドルを切りながら言葉を繋げた。
「頼まれ物ですか?」
「え?」
「紙袋ですよ。――チョコレートでしょう?」
今日がバレンタインである事を考えれば、包みが何であるかという事は容易く予想できる。そして、彼女の義兄である殺生丸が(外見だけは)とびきりの極上品である事も考え合わせれば、彼に渡して欲しいと頼まれたのだろうと弥勒が予想するのはある意味当然の帰結であった。
「確かにチョコですけど……」
りんはきょとんとした顔になって弥勒を見返すと、小首を傾げて後を続けた。
「あたしあてですよ、これ」
「――は?」
りんの返事に、間の抜けた声を上げて思わず彼女の方を振り向いた弥勒に、慌てたようにりんが「前を向いてくださいっ」と小さく叫ぶ。その言葉に弥勒もすぐに姿勢を正して、進行方向に顔を向けた。
「……貴女宛、ですか?」
「ええ。……友達とか、先輩とか……」
「……女の子、からですか?」
せめて男子から貰った、というのなら(通常の日本的なバレンタインとは異なるが)まだいいのだが、と思いつつ、確認するようにそう訊いて見る弥勒だったが、あっさりとそれは打ち砕かれた。
「そうですよ」
「……」
自分たちの母校は男女共学だったはずだが、と思わず遠い目になってしまう弥勒であった。
「弥勒さんたちの頃は、お友達同士でチョコのやり取りとか、しなかったんですか?」
「……いえ、あまり聞いたことはないですね」
もしかしたら、女子の間ではあったのかもしれないが、ここまで大量にチョコを貰う子がいなかったので、目に付かなかったのかもしれない。
……しかし、女子高ならともかく、共学で同性からここまでチョコレートを貰う、というのは一体どういうものなのだろうかと、ついつい考えてしまう。単に『友達同士でのプレゼント交換』にしては、ラッピングなどが妙に凝っている様な気がするのだが。
(……まあ、確かに、男女どちらからでも好かれるタイプの子ではあるんですけど)
ずっと母子家庭で、決して裕福ではない生活を送ってきたというが、だからといって自己憐憫に浸るような所もなく、今時珍しいくらい素直で真っ直ぐな気性の少女である。少しばかり世間知らずな一面もあるようだが――いくら義兄の知り合いだからといって、見ず知らずの相手と言っていいような自分の車に乗ったことからもそれは窺えた――、そこが却って(同性異性を問わず)保護本能というか、庇護意識をかきたてられるのであろう。
(全く……殺生丸にはもったいない、いい子なんですけどね……)
弥勒が内心でそんな事を考えているとは知る由もなく、りんが無邪気に話しかけてくる。
「ふうん……あ、お兄さんって、やっぱりバレンタインの時は沢山チョコ貰ってたんですか?」
りんのその問いかけに、殺生丸の高校時代のエピソードを話す約束だったのを思い出して、弥勒は頭を切り替えることにした。
「……まあ、貰っていたといえば貰っていたんでしょうけど……」
何となく歯切れの悪い弥勒の言葉に、りんが不思議そうな顔になる。
「手元にはひとつも残さなかった、という意味では……貰ってなかった、とも言えるかもしれませんね」
「……は?」
弥勒の説明にりんが軽く眉を寄せる。それを視界の隅に捉えながら、弥勒は高校の頃を思い出して小さく苦笑した。
「あの容姿ですから、それこそバレンタインには、燃える女子が多かったですけど……面と向かってチョコレートを差し出されても、無視して素通りしてましたからねぇ……」
「……」
「大抵は完全に無視でしたが……先輩とかだとそう無碍にも出来ませんから、一言断りはいれてましたね」
「……何て、言ってたんですか……?」
最初は興味深そうだったりんの表情が、段々と翳っていくが、運転に集中しつつ当時を思い返していた弥勒がそれに気づく事はなかった。
「確か……『製菓会社の思惑に乗る気はない』でしたかね。――まあ確かに、バレンタインにチョコレート、というのは製菓会社の販促キャンペーンみたいなものではあったんですけど」
「そう……ですか」
弥勒の話を聞いたりんが俯いて、膝の上に置いた鞄をぎゅっと抱きしめる。
バレンタインというのは(キリスト教圏の国では)ほぼ全世界的なイベントではあるが、女性から男性にチョコレート(と告白)といった形式を取っているのは日本だけである。そしてそれが、製菓会社の宣伝によるものであった、というのはりんも聞き知ってはいた。
だが、たとえそうと分かっていても、二月十四日という日に合わせてチョコレートを用意する、ということは年頃の少女にとって特別な意味を持つ事であったのだ。
「何しろ、ああいった男でしたからね、面と向かっては無理だと思った子達が――古典的ではありますけど――机の中とかに入れてたりもしましたが……」
「……どうなったんです?」
「纏めてゴミ箱へ捨てようとしてましたね」
りんのおずおずとした問いかけに、弥勒は苦笑交じりにそう答えた。
「……流石にそれは止めましたけど……そうしたら、今度はこっちに押し付けてくるんですから、全く……何を考えていたんだか」
「……」
「せめてカードくらいは読んでやれ、と言ったら『そんな暇はないし、そんな事をして、余計な関わりを持つ気もない』なんて、しれっとした顔で言うんですから……全く、あの頃から本当に可愛げのない奴でしたねぇ……」
「……で、でも……お兄さん、その頃……お、おつきあいしてた人がいたんじゃなかったですか?」
「付き合ってた人?」
りんの訴えるような問いかけに、あの頃の殺生丸にそんな相手がいただろうかと、首を傾げた弥勒だったが、ややあって記憶の引き出しから該当するものを引っ張り出す事に成功した。
「……ああ……確か、生徒会で書記をやっていた子と、一時期付き合ってたみたいでしたね」
何て名前だったかな、と小さくぼやく弥勒に分からないように、りんはそっとため息をついた。
本命がいたから受け取らなかった、と考えたかったからだが、続いての弥勒の言葉にその淡い安堵感も粉々にされる。
「もっとも、彼女からも受け取ってなかったから……単に面倒だった、というのが一番正確なところだったのかもしれませんね」
少なくとも弥勒の記憶にある限り、高校時代の殺生丸がバレンタインにチョコレートを受け取って、手元に残していたという覚えはなかった。(ちなみに、大学に入ってからもそれが続いていることを考えると、ある意味筋金入りと言えるかもしれない。)
「ああいうのは、受け取ったりしたら、女の子と言うのはやはり、それなりに期待しますし……」
実際、三月十四日(いわゆるホワイトデー)に、返事を期待して殺生丸に声をかけてきた女子が、彼のあまりにも冷たい態度にその場で泣き出してしまう、といった事も一度や二度ではなかったのだ。しかも、泣いている相手に対して一片の感情も見せる事無く「一方的な期待を押し付けられるのは迷惑だ」などと言ってのけたのである。
素っ気無いとか冷たいとか言う以前に、人間としてどうかと言いたくなるような言動である。
「……あの男に、まともな返事とかを期待しても無理だって、二年目にもなれば判りそうなものなんですけど……結局、卒業するまで似たような事の繰り返しでしたね」
流石にりんにそういった状況をそのまま伝えるわけにもいかず、曖昧な表現で誤魔化すが、既にかなり沈み込んでいるりんにとっては大した違いはなかった。
鞄の中に入っているチョコレートは、母と一緒に作ったものだ。トリュフとココアクッキーを小箱に入れ、シックな雰囲気を出せればと思って選んだ、英字新聞風のラッピングペーパーとダークグリーンのリボンでラッピングしてある。あまり甘いものが好きでないことは知っていたから、チョコレートはビターチョコを基本にしてブランデーを多めに入れ、クッキーも甘さをかなり控えていた。
去年は色々とあって、きちんとチョコレートを渡せなかったから、今年こそはと思って、張り切って準備したのだが、弥勒の話を聞いているうちに、浮き立った気分は穴の開いた風船のように萎んでいった。
確かに冷たくて素っ気無い所もあるが、自分からのプレゼントを突き返すような事をする人ではないから、受け取ってはくれるだろう。だが、本心では迷惑だと思うのではないだろうか? 甘いものがあまり好きではない事を知りながら、世間に流されるようにチョコレートを用意した事に呆れるのではないだろうか?
助手席の雰囲気が変わったのに気がついて、弥勒がそちらに視線を流すと、俯いて表情を隠したりんの唇から小さくため息が零れるのが眼に入った。
その瞬間、弥勒の背を嫌な汗が伝い下りていった。
(……ま、まずい……)
表面上は見事なまでに穏やかな表情を浮かべたままではいたが、内心は焦りで一杯である。ついつい調子に乗って話してしまったが、今現在、真剣に殺生丸のことを想っている少女に聞かせるには――本当に酷い部分は誤魔化したとはいえ――、あまりにも最低な内容であることに思い至ったのだ。
この少女ときちんと顔を合わせたのは、去年の学祭の時だけであるが、その前からその存在については薄々と気づいてはいた。
何しろ、御世辞にも素行がいいとは言い難かった男が、ここ一年ばかり女性を近づけようとしていなかったのだ。何かあると考えない方がおかしい。とうとう本命の女性が現れたかと思ったのは間違っていなかったが、その相手が父親の再婚相手の連れ子(つまりは義理の妹)だったというのは、かなり意外であった。まさか、殺生丸のようなタイプの男が、家族になった相手に手を出すとは思わなかったのだ。これは別に道義的な問題がどうというのではなく、そんな事をして波風を立てるような事を、あの面倒臭がりなところのある男がするとは思えなかったためである。
どんよりと落ち込んでいるりんを横目で見て、弥勒は必死で言葉を探した。しかし、日頃は恋人から「口八丁」とからかわれているというのに、肝心な局面では何も気の利いた台詞が思いつかない。
「……ま、まあ、これは本当の『本命』がいなかったころの話ですから、今のあいつには当てはまらないと思いますがね」
結局、口を突いて出たのは、そんな月並みな台詞であった。
「何しろ、今の殺生丸にはあなたという『本命』がいるんですから」
そう言って、にこりと笑いかけて――少しばかり引きつってはいたが――みるが、りんは俯いたまま弥勒のほうを見ようとはしなかった。
「……どうも、ありがとうございました」
「いえいえ、気にしないで下さい」
別れ際、固い表情でぺこりと頭を下げたりんに、弥勒は――表面上は――穏やかな表情でそう答えた。そうしながら、りんにそれと悟られないように、周囲に視線を走らせて殺生丸の車がないことを確認する。
(……当分、あいつには近寄らないでおこう……)
内心そう思いながら、「それでは」と軽く会釈して車を出す。それを見送ってから、りんも家に入った。
「ただいま」
「お帰りなさい。……あら、殺生丸さんは一緒じゃなかったの?」
家の奥から顔を出した十六夜が軽く首を傾げる。車の音がしたと思ったんだけど、と言う母に、義兄の友達に送ってもらったのだと話すと、十六夜は少し意外そうな顔になった。
「だったら、上がってもらえばよかったのに」
「……うん」
いつもの自分だったらそうしていただろうが、あの時はそんな事にまで頭が回らなかったのだ。
「着替えてから、殺生丸さんのところに行くんでしょう? お夕飯はどうする? 食べてくる?」
「……ううん、家で食べる」
「食べてから行くの?」
娘の様子がおかしい事に気がついて、十六夜が少し身を屈めて彼女の顔を覗きこんでくる。母の視線を避けるようにりんは身を引いて、着替えてくると言って二階の自室へと上がっていった。
「……?」
その後姿を見つめて、十六夜は小首を傾げた。何やら落ち込んでいるのは判るのだが、原因は皆目見当がつかないのだ。
年頃の娘の悩みと言えば恋人に関するものが筆頭に挙げられるだろうが、それとも少し違うような気がする。それに、もし殺生丸絡みだとすると、義父である闘牙に気を遣って、却って何事もなかったように振舞うのではないかと思うのだ。
(……でも、殺生丸さんの事以外で、そう悩むような事も無いと思うし……)
自分で言うのも何だが、親子関係は極めて良好であるし、家庭内に特に問題があるわけでもない。(あるとするなら、それこそりんを巡っての父子間の冷戦くらいなものである)学校内で何もないとは言い切れないが、深刻なものならちゃんと話してくれるだろう、という確信が十六夜にはあった。
(一体、何なのかしら?)
釈然としないものを感じながらも、自分から話す気になるまでそっとしておく事に決めて、十六夜は夕飯の支度に取り掛かることにした。
りんはベッドに寝転がってぼんやりと天井を見上げていた。
頭の中では弥勒の言ったことがぐるぐると渦を巻いている。
確かに、思い返してみれば、いわゆるイベント事にはあまり興味を示さないタイプの人ではあった。
(クリスマスだって……お母さんが誘わなかったら、来なかったかもしれないし……)
考えれば考えるほど、思い当たる節がありすぎて、ますます気が滅入ってくる。
くるりと寝返りを打つと、お気に入りのペンギンの抱き枕を抱きしめて、深々とため息をついた。
自分からのプレゼントを受け取らないという事はないだろうから、受け取ってはくれるだろうが――食べてはくれないかもしれない。頑張って作ったものが、一番食べてもらいたい人の口に入らずにゴミ箱行きになるかもしれないと思うと、更に気が重くなる。
「……」
ちらりと、机の上に置いたままの携帯電話に眼をやる。
メールして、殺生丸が帰宅しているかどうかを確認するつもりだったのだが、結局、一文字も打たずじまいで机の上に置いたままになっている。
りんは深いため息をつくと、ペンギンのふかふかしたお腹に顔を埋めて眼を閉じた。
その日、殺生丸は朝から不機嫌極まりなかった。
恋人達のイベントだか何だか知らないが、朝からチョコレートを渡そうとしてくる――彼にとっては「押し付けようとしている」としか思えなかったが――女性が入れ替わり立ち代り現れて、落ち着いて何かをする事が出来なかったのだ。
元々こういったイベントに興味がない上に、他人に自分のペースを乱されることを何よりも嫌っている殺生丸にとっては、実にストレスの溜まる一日であった。
今日は、腰を据えて作業をしていた時間より、纏わりついてきた女性達を追い払っていた時間の方が絶対に多かった、と苦々しく思い返す。
漸く大学での用事を終えてマンションに戻ると、ノートパソコンを机の上に置いて、ローソファーに身体を沈める。コーヒーでも飲みたいところだが、今は何もしたくない、というのが正直な所であった。
一人暮らしは気楽だが、こういう時には不便だな、とぼんやり考えつつ、鞄を探って携帯電話を取り出す。いくつかメールは入っているが、肝心の相手からのそれは入っていない。
殺生丸は怪訝そうに少し眉を寄せた。いつもなら、高校の昼休みや放課後の時間帯に、その日の事を色々と綴ったメールが入っているのだが、今日は一件もない。
「……」
無言のまま、事務的にメールをチェックすると、携帯電話を閉じてテーブルの上に置く。それから漸くコーヒーを淹れるために立ち上がった。
ほぼ毎日、殺生丸の携帯電話にはりんからのメールが入ってきていた。(流石に試験期間中などは途切れがちになっていたが)内容は学校での出来事や家族の近況など、はっきり言ってしまえば他愛のないもので、以前の殺生丸なら一文字も読む事無く破棄していただろうと思われるものであった。しかし今は――年頃の少女からのメールでは珍しくも無いが――、カラフルな絵文字がちりばめられたファンシーなメールに目を通す事が彼の『日常』の一部になってしまっていた。
今日は(自分にとってはそれこそどうでもいい事だが)バレンタインデーだから、絶対にメールが入っていると思っていただけに、何やら拍子抜けしたような感じである。
殺生丸本人はイベントには興味がないが、りんがそれに合わせて何かをしたい、というのに付き合うのは別に嫌いではなかった。というより、そういった事を楽しんでいるりんの表情を見るのはなかなかに楽しい、というのが正直な所であった。
今まで、どんな女性と付き合っていても――高校時代からの悪友に言わせると「あんなのは付き合っているとは言わない」だそうだが――自分のペースを崩す事など考えもしなかったというのに、りんに対してだけは、それをするのに全くと言っていいほど抵抗を感じないのだ。
慣れた手つきでコーヒーを淹れながら、ちらりと机の上の携帯電話に眼をやる。
製菓会社の思惑などに興味はないし、甘いものも好きではないのだが、それでもやはり――あまり認めたくは無いが――気にならないと言えば嘘になる。あの義妹がこういったイベントに無関心な筈が無いと確信しているだけに、何の連絡も無いというのは妙な気がした。
まさかとは思うが、自分がこういったイベントに興味が無いのを察して、あえて何もしないことに決めたとでも言うのだろうか。
(……いや、それはないか)
殺生丸自身はこういった事に対して無関心であるが、りんに付き合う時にはそういった様子をあまりあからさまに出さないようにはしている。といっても、あまり積極的でないことも事実なので、もしかしたらその辺りから察したのかもしれない。
今ひとつはっきりしない状況に些かうんざりしつつ、殺生丸は濃い目のコーヒーを口にした。
夕食の後、りんは予習があるからと言って自室に籠もっていた。
その言葉の通り、机について、教科書やノートを広げてはいるものの、手をつけている様子は全然無い。
「……もうすぐ、バレンタイン終わっちゃうなぁ……」
携帯電話の液晶画面に表示された時刻を見ながら、りんはこの日何度目になるのか分からないため息をついた。
とにかく少しでも予習はしておこうと思って、英語の教科書をじっと見つめるが、視線はページを上滑りするだけで内容は全然頭に入ってこない。シャーペンを手にしてはみるが、結局一文字も書かないまま、開いたままのノートの上に置く。
りんが深いため息をついたのとほぼ同時に、部屋のドアがノックされた。
「――はい?」
椅子をくるりと回して振り向くと、ドアが細く開いて父が顔を覗かせた。
「ちょっといいか?」
「……いいけど。何? お父さん」
いつも用事があるときは、単刀直入に言ってくる父らしくもなく、何処と無く躊躇うような態度に、りんが小首を傾げる。
不思議そうな顔の娘を前にして、闘牙は内心の葛藤と戦っていた。
元々彼は大変に家族思いの男である。現在の家族を大事にしているのと同様に、早くに死に別れた先妻の事も大切に思っているし、その妻の忘れ形見である殺生丸の事も――どんなに可愛げが無くても――可愛いと思っている。いきさつはどうであれ、大事な息子と可愛い愛娘が両想いであるというのが事実である以上、二人の間に割り込んで波風を立てるようなことはしたくない――と、頭では理解しているのだ。
しかし、人間は感情の生き物でもある。いかに実の息子とはいえ可愛げの欠片もない男と、血の繋がりこそ無いが、純粋に自分を父親として慕ってくる可愛らしい少女とでは、後者に軍配が上がってしまうのも無理からぬ事であった。
とはいえ、今は可愛い娘のために、感情より理性を優先させなくてはいけない時でもあると解っていたので、一つ深呼吸してから口を開いた。
「出かけるから、準備をしなさい」
「え?」
「……殺生丸のマンションまで送るから、チョコレートを渡してくるといい」
父の言葉にりんが眼を見開いた。信じられないような表情で、何度か瞬きをして闘牙の顔を見上げてくる。が、すぐに寂しそうな表情になって俯いた。
「……で、でも……お兄さん、甘い物とか好きじゃないし……」
ややあって、りんがそうぽつりとつぶやくのを聞いて、闘牙は今ここにいない息子を絞め殺したくなった。
「……バレンタインのチョコを、そんな理由で断るような大馬鹿者だったら、速攻で振って来い」
かなり本気度の高い殺意を押し殺して、あえて軽い口調でそう言うと、漸くりんの顔が少し明るくなった。
夕食の後片付けをしてしまうと、殺生丸は手持ち無沙汰気味にパソコンの前に座っていた。習慣的にいくつかのレポートを見直すが、内容が頭に入ってこない状態では意味が無い。
「……」
苛立ち気味に小さく舌打ちをすると、パソコンの電源を落としてキッチンに向かう。今は、コーヒーよりもっと強い飲み物で、このすっきりしない気分を追いやった方が良さそうだった。
棚からブランデーの瓶とグラスを引っ張り出すと、無造作に注いで一息に呷る。強い酒が喉を焼くのを感じながら小さく息をつくのと同時に、放り出したままの携帯電話が軽やかなメロディを奏でた。その音を耳にした瞬間、殺生丸の動きがぴたりと止まり、流しに瓶とグラスを置くと携帯電話を取り上げた。
『今から部屋に行きます』
一行だけのシンプルなメールが表示されている。
携帯電話を閉じて、玄関のドアを見やると同時に、チャイムの音が響いた。チェーンを外してドアを開けると、予想通りそこにはりんが立っていた。
「……どうした」
大体の予想はついていたが、あえてそう問いかけてみると、りんが思い切ったような表情で手にした包みを差し出してきた。
「……あ、あの……甘さは控えめにしてますから、だから……その……大丈夫だと……」
ぼそぼそとそう呟きながら、殺生丸の目線を避けるように少し俯き、綺麗にラッピングされた包みを持つ手は緊張のせいなのか僅かに震えていた。
「……」
両思い(一応)の相手にバレンタインのチョコレートを渡すのに、何故こんなにガチガチになる必要があるのだろうか。
そんな疑問を抱きつつも、チョコレートを受け取って、中に入るように促す。
「父上に送ってもらったのか」
「……うん」
殺生丸が受け取った途端、ほっとしたようにりんが肩の力を抜いた。それを視界の隅に捉えながら、座るように促して紅茶の準備をしていると、りんの携帯電話が鳴った。慌てたようにりんが電話に出る。どうやら父からかかってきたらしい。一言二言何やら話していたが、ややあって困惑したような表情になって、殺生丸の方に顔を向ける。
「……お兄さん。お父さんがちょっと話があるって……」
「? ――はい、何ですか。父上」
何の用だと思いつつも電話を受け取って耳に当てるが、次の瞬間、慌てて電話を持った手を遠ざけた。
『真面目に聞かんか!! この馬鹿息子!!』
スピーカー機能が不要なくらい、はっきりと聞こえてくる父の声に、りんも眼を丸くする。
「……だったら、普通の声で話してください」
心持ち耳から離してそう言うと、父も少しは自覚していたのか声を落とした。
『お前、りんにチョコレートがいらないとかそういうような事を言ったんじゃないだろうな?』
「は?」
改めて電話を耳に当てて通話を再開するが、いきなりそう切り出されて、殺生丸が眉を寄せる。
『お前があまり甘いものが好きじゃないのは知ってるが、いいか、バレンタインのチョコレートと言うのはな、個人の嗜好なんぞ超越した代物なんだ。何とも思っていない相手からならともかく、何処に出しても恥ずかしくない程、可愛くて優しくて文句のつけようのないいい子から、チョコレートを貰えるというのに、それを断るとは一体どういう了見をしとるんだ、お前は』
「……」
声の大きさこそ落としてはいるが、それでも妙な迫力を含んだ声で一息にまくし立てられて、殺生丸はただただ沈黙するしかなかった。
「……私はそんな事を言った覚えはありませんし、断るつもりもありませんでしたが」
それでも、身に覚えのないことで非難されるのは気に入らなかったので、一応そう答えておく。
『だったら、何でりんがあんなに落ち込んどったんだ』
「……知りません」
義娘を溺愛しているのは解るが、りんに何かがある度に自分のせいにするのは止めて欲しいものである。
『……まあいい。とにかく、ちゃんと受け取ってやるんだぞ』
「もう受け取りました」
『…………三十分経ってもりんが降りてこなかったら、そっちに行くからな』
その言葉に、窓の方に行って下を見下ろすと、街灯の下に見覚えのある車が見えた。ついでに、その横に立つ長身の男性の姿も。
「……茶を飲む時間くらいは待ってもらいたいものですね」
『言っておくが、明日は平日だ。……お前も大人なら、ある程度の分別は弁えておけ』
「ちゃんと下まで送りますから、ご心配なく」
『……』
電話の向こうの父の顔が容易く想像できるような沈黙が返ってくる。
「りんに代わりますか?」
『いや、いい』
「では、失礼します」
そう言って電話を切ると、りんに渡す。
「茶を淹れるから、座ってろ」
幸い、長話はしなかったのでちょうどいい感じに茶葉は開いていた。りんの分はカップにミルクを入れてから紅茶を注いでミルクティーにし、自分用にはストレートで淹れる。りん専用になっている猫の形のシュガーポットと揃いの陶器のティースプーンを用意すると、一緒に盆に載せてソファで待っているりんの前に置いてやった。
「ありがとうございます」
ようやく落ち着いた様子で紅茶のカップを受け取って、笑顔を向けてくる。その隣に腰を下ろして、りんが紅茶を飲むのを見ながら、殺生丸はさっきの父からの電話で更に深まった疑問を口に出した。
「……今日、来るのが遅くなったのは何か理由があるのか?」
なるべくいつもと同じ口調でそう訊くが、りんが軽く噎せるのを見て、どうやらこちらが思っていたより根が深そうだと考え直した。
「……えっと……その……」
殺生丸にそう訊かれて、りんは居心地が悪そうに少し身じろいだ。確かに、喧嘩中でもないのに、バレンタインデーに彼氏と連絡を取ろうとしない、というのは妙な話ではある。
「――私が、チョコを受け取らないとでも思ったのか」
りんが頭の中で一生懸命に言葉を探していると、心中を見透かしたようにそう言われて、反射的に身体が強張ってしまう。そっと隣を窺ってみると、殺生丸の表情はいつもと特に変わった様子は無い。とはいえ、下手な誤魔化しが利くような相手ではないので――そもそもりんにそんな事は無理だったが――、きちんと理由を話さないわけにはいかないようだった。
ぎくりとしたように身体を強張らせたりんを見て、殺生丸はやはりそうだったかと、内心で嘆息した。しかし、何故そんな風に考えたのかという事まではよく解らない。
「……お兄さん、バレンタインとかに、あんまり興味がないんじゃないかって……そう思って……」
ややあって、りんがぽつりとそう切り出してきた。
「……」
「チョコとか……迷惑じゃないかなって……そう考えたら、何だか落ち込んじゃって……」
「……」
確かにイベントの類にもチョコレートにもさほど興味はないが、だからといって「本命」からのそれを拒むような事をする気はない。ましてや迷惑などと思うはずもなかった。
「……確かに、そういったイベントに興味はないが……」
言葉を選びながらそう切り出すと、りんの肩がびくりと震える。それを視界の隅に収めながら、殺生丸は後の言葉を続けた。
「『本命』から貰えないとなると、やはり気になるな」
「……え」
続けられた言葉に、りんが何度か瞬きをする。
「大体、お前からのチョコを迷惑だなどと思う筈がないだろう。……一体、どこをどうすればそういう考えに行き着くんだ」
少し困ったように眉を寄せて見上げてくるりんの髪に手を伸ばして軽く梳いてやると、まだ少し強張っていた肩から力が抜けていくのが伝わってくる。
「……でも、お兄さん、付き合ってた人からのチョコも受け取ろうとしなかったって……聞いたから。――甘いものとかも好きじゃないし……」
「…………誰からそんな事を聞いたんだ」
それでもどこか不安そうな顔でそう言われて、殺生丸は内心で歯軋りしながらも、表には出さずにそう訊き返した。
「………お友達の……弥勒さん」
「……」
あいつか。
りんの口から出た名前に、殺生丸の頬がぴくりと引きつった。頭の中で、明日からの予定に新たな項目を付け加えながらも、それについては後で考える事にして、今はりんを宥める事を優先させる事にする。りんは、基本的な性格は明るくて前向きだが、妙な所で依怙地な部分も持ち合わせており、そのせいか、一度マイナス視点に思考が向いてしまうと、とことんまで沈んでしまう傾向がある。下手な言葉をかけるとますます内に籠もってしまいかねないので、殺生丸は行動で示してやる事にした。一旦りんの髪から手を離すと、ソファテーブルに置いてあったチョコレートの包みに手を伸ばして、包装を解いていく。小さな箱の中に、少し不揃いのトリュフチョコとココアクッキーがそれぞれ三つずつ入っている。りんがじっと見つめてくるのを感じながら、チョコレートを一つ取り上げると、口に放り込んだ。
「……まあまあだな」
ややあって、殺生丸がそう呟くのを聞いて、りんがほっとしたような表情になる。不味い場合は容赦なくそう言う男だから、「まあまあ」というのは充分に合格の範囲内なのだ。
実際、口の中に広がる濃厚なカカオの風味とブランデーの香りは、それほど悪いものではなかった。チョコレートだからどうしても甘いのは仕方が無いが、このくらいなら甘いものが好きでなくても、まあ普通に食べられる。(ただし、これほど洋酒が多く入っていたら、運転前には食べないほうが良さそうだったが)
「作る時に味見はしたのか?」
良かったと胸を撫で下ろすりんの顔を見下ろして、そう訊くと、りんは頭を振った。
「ううん。お母さんが、あたしは食べない方がいいって言ったから……お酒が多いし」
クッキーの方は少し試食したが、トリュフの方は洋酒が多いので母に止められたのだと話すと、殺生丸の瞳に面白そうな光が浮かんだ。それに気がついたりんが、ぎくりとしたようにソファの反対側に後ずさる。義兄がこういう目付きをした時は要注意だと、経験上悟っていたからだ。
「……あ、あの……お兄さん? ……ちょっと、待っ……!」
だが、りんが立ち上がる前に殺生丸の左手が彼女の腕を捕らえて、自分の方に引き寄せる。そのまま力強い腕の中に抱き込まれて、りんの心拍数が一気に跳ね上がった。反射的に顔を上げると同時に、端正な顔が視界一杯に広がり、薄く開いた唇を塞がれていた。
「……んぅっ……」
柔らかく啄ばんでくるような唇の感触に、りんが鼻にかかったような声を洩らす。右手を髪に差し入れて引き寄せながら更に深く口付けると、りんの身体から余分な力が抜けて殺生丸に柔らかく凭れかかってきた。くたりと力の抜けた華奢な身体を抱き寄せると、空いた手を伸ばして残ったチョコレートを摘み、一旦唇を離した。
「……あ……ふぁ……」
解放された小さな唇から、濡れた艶めいた吐息が零れる。濡れた唇を拭うように指先を這わせると、りんが薄く眼を開いた。潤みを帯びた黒瞳に見上げられて、殺生丸の背にぞくりとしたものが走るが、何とかそれを押さえ込むと、薄く開いた唇にチョコレートを押し込んだ。
「――んっ?」
りんが驚いたように眼を見開くが、抗議の声を上げるより先に、再び唇が塞がれていた。とろりとチョコレートが溶けて、口の中に濃厚なブランデーの風味が広がる。それと同時に舌を絡め取られて、頭の芯がくらくらするような酩酊感がじわりと身体を侵食していく。
「……ん……」
ふらつく身体を支えようとするかのように、細い腕が殺生丸の首に回される。懐くように擦り寄ってくる柔らかな身体の感触に、殺生丸の裡に先程抑えこんだ感覚が甦ってくる。いつもなら制御できる感覚が、少し前に飲んだブランデーのせいなのか、思うようにならない。久しぶりの恋人の感触を堪能しがてら、ちょっとした遊び心で仕掛けた行為に、思っていたよりずっとのめりこんでいる自分がいるのを、こんな時でさえ醒めた意識の片隅で認識する。
りんの柔らかな黒髪を右手で梳きながら、時折指先で細い首筋を辿るようにすると、腕の中の華奢な身体がびくりと震えた。空いた手でニットのセーターをたくし上げて素肌に触れると、りんがはっとしたように腕の中で身じろいだ。
「……んっ……ちょっ……待っ……」
小さく抗議の声を上げながら、首に回した手で殺生丸の髪を引っ張るが、殆ど力の入っていない状態では抵抗にもならなかった。
「……あっ……やぁ……!」
小振りな胸の膨らみを直に掌に包み込まれて、りんがびくりと身体を震わせる。髪を引っ張っていた手から力が抜け、ただ添えられているような状態になったのを感じ取って、薄く笑みを浮かべると、そのまま唇を首筋に落としていく。
この瞬間、殺生丸(とりん)の脳裡からは、明日が平日である事や、下で父親が待っていることなど綺麗に抜け落ちていたのであったが、そうは問屋が卸さなかった。
ソファテーブルに置いたままにしてあったりんの携帯が、軽やかなメロディを奏でる。
その音を耳にした途端、夢見心地だったりんの表情がはっとしたものになる。慌てて殺生丸の腕から抜け出そうと身を捩るが、その動きを利用されて逆にソファに押し倒されてしまった。
「……放っておけ」
「だ……だって、お父さんから、だから……出ないと……」
まだ余韻は残しているものの、頭はそれなりにはっきりしたらしいりんが手を伸ばそうとするのを捕らえて、ソファに押し付ける。
「放っておけばいい」
「で、でも……出ないと……お父さん、上がってくるかもしれないし……」
りんの言葉に、殺生丸の頭にも漸く理性の働く余地が出来る。
一人暮らしの習慣で、りんを入れた後は鍵とドアチェーンもかけてはいるが、父には合鍵を渡してある。
殺生丸の部屋はワンルームなので、ドアを開けたら部屋の中は丸見えである。当然の事ながら、ソファも玄関から見える位置に置かれているので、もしドアを開けられたら(ドアチェーンで見える範囲は限られるが)何をしているのかは一目瞭然である。
……そうなった場合、あの父親ならドアを壊してでも入って来かねない。
「……」
数秒間でそこまで考えを纏めると、殺生丸は――かなり不本意であったのは言うまでもないが――身体を起こしてりんの上から退いた。
りんが慌てて携帯に手を伸ばして電話に出る。父親に、電話になかなか出なかった事を謝りながら、片手で乱れた髪を梳いて整える。それを横目で見ながら、殺生丸も大きく息をついて身体の奥に燻る熱を抑え込んだ。
「……はい、今から降りていくから……大丈夫だよ、お兄さんが送ってくれるから。……それじゃ」
電話を切ると、ふうと大きく息をついて、たくし上げられてしまったセーターの裾を引っ張って下ろして身仕舞いを整える。キスで赤くなった唇だけは誤魔化しようがないが、外の暗がりで何とか気づかれずに済む事を祈るしかない。
隣を見ると、殺生丸が立ち上がって冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しているところだった。そのままごくごくと二口ほど飲むと、熱を冷まそうとするようにボトルを額に当てている。
「……」
大丈夫かと声をかけるのも何だか違うような気がして、りんが躊躇っていると、殺生丸の方から「下まで送る」と言って来たので、慌てて立ち上がって義兄の後について行った。
闘牙は愛車に凭れて、苛々した様子で息子の住むマンションを見上げていた。
娘を送り届けてから三十分以上経ったので、先程りんの携帯に連絡したばかりだ。
「……」
すぐに降りてくる、と言った以上、りんを送り届けないわけには行かないだろうから、今頃はエレベーターで一緒に降りているであろう。
実際、数分後には――彼の主観ではもっと長く感じられたのだが――息子達がマンションのエントランスから出てきた。小走りに駆け寄ってくる愛娘の姿に、思わず相好を崩しかけた闘牙だったが、りんの姿がはっきりとしてくるにつれて、その笑顔がぴしりと凍りついた。
りんの顔は明らかに不自然に(と、彼には思えた)上気して赤くなっており、そして何より夜目でもはっきりと判るほどに唇が赤くなっていた。
少なくとも、ある一点においては何があったかは一目瞭然である。
「……」
それでも、長年ビジネスマンとして培ってきた経験を生かして、何とか内心の動揺を表には出さないようにするが、りんの後ろからゆっくりと歩いてくる殺生丸には気づかれたらしい。
いかにも小馬鹿にしたように軽く唇の端を上げる息子を見て、闘牙の頬がぴくぴくと引きつるが、りんに対しては何とか穏やかな表情を向ける。
「早く車に乗りなさい、冷えるぞ」
「はあい」
心もち俯くようにして車に乗ろうとするりんの背中に、殺生丸が声をかける。
「りん」
「……はい?」
「土曜日、特に予定がなかったら、映画でも観に行くか?」
瞬間、闘牙の表情が傍目でもはっきりと分かるほどに険しくなり、それとは対照的にりんの表情がぱあっと明るくなる。だが、次の瞬間に少し考え込むような表情になり、傍らの父親を見上げる。
「……行ってもいい? お父さん」
心なしか不安そうな響きがあるのは、義父と義兄が冷戦状態なのを彼女なりに感じ取っているせいであろうか。
ちらりと息子の方に目をやれば、こちらは憎たらしいまでに余裕綽々の状態である。
――愛娘(りん)がここまで楽しみにしているのを、無碍に却下できますか?
そう言わんばかりの態度でこちらを見やる息子に、かなり本気度の高い殺意を覚えつつも、表面上は落ち着いたままで思考を巡らせる。
「……」
暫し考え込むように視線を泳がせていた父が、ややあってにやりと笑みを浮かべた時、殺生丸はふと嫌な予感を覚えた。
そしてその予感が的中するのに、さほどの時間は必要としなかったのである。
「……ああ、構わないよ」
父の返事を聞いて、りんが顔を輝かせる。それを見下ろしながら、闘牙は更に言葉を継いだ。
「――ちょうど、十六夜が春物を選びたいと言っていたから、久しぶりに家族揃って出かけるのも悪くはないしな」
「……!」
それを聞いた途端、殺生丸の表情がぴくりと引きつった。だが、もう一人の当事者であるりんの表情はそれとは対照的に、ますます明るくなったのである。
「そうなの? じゃあ、久しぶりに一緒に出かけられるんだ」
満面の笑顔で父を見上げるりんを見て、殺生丸は父に険しい視線を向けたが、これは余裕たっぷりに受け止められる。
――私の提案に反対して、りんを落ち込ませる事が出来るか?
父親の目線があからさまにそう言っているのを感じ取って、殺生丸は内心で舌打ちした。
赤ん坊の頃に実の両親と死別し、母方の叔母である十六夜と二人暮しだったりんは、「家族」というものに対して人一倍思い入れが強い。特に、「父親」という存在に無縁だったせいか、闘牙の事は実の父親のように慕っている。(そのあたりが、この父子の冷戦の理由のひとつでもある)
そのせいなのか、りんは家族との時間をとても大切にしている。例えば、両親のどちらか(あるいは両方から)と出かける約束と、殺生丸(彼も家族ではあるのだが、この場合は恋人としての例である)との約束が入っていた場合、りんが優先するのは「先に約束をしていた方」である。
この年頃の少女であれば、恋人との約束を何よりも優先させそうなものであるが、りんにはそういったところがあまりないのだ。(これは、恋人が家族の一員でもあるという事に起因しているのかもしれない)
今のような状況の場合は、まだ明確な約束を交わす前ということもあって、父の提案の方が若干有利に作用している。この状況で、あくまでも「二人だけで出かける」という事に固執したら、りんに後味の悪い思いをさせることになる。
「……」
そこまで考えて、殺生丸は小さくため息を吐いた。
どうやら、今回は父に一歩譲った方が良さそうである。
映画の上映時間の都合などもあるので、待ち合わせの時間については前日に連絡するということになった。りんが観たい映画の候補をいくつか挙げ、殺生丸が上映時間を調べておく、という事で話は纏まり、父と義妹の乗った車が走り去るのを見送ると、殺生丸はおもむろに携帯電話を取り出して、とある人物にメールを打ち始めた。
(――そうそう思惑通りには行かせませんよ、父上)
そう内心で呟くと、整った唇に薄く笑みを浮かべる。
――どうやら、週末に冷戦が再開するのは避けられないようである。
《終》
脱稿:2006.7.8
世の中にはイベント事にやたらめったに張り切る人間もいれば、全くといってもいいほど興味を示さない人間がいる。
当年とって二十三歳の犬塚殺生丸は、(今更言うまでもないだろうが)後者に属するタイプであった。
従って今までは、周りの人間が(実の父親も含めて!)どれだけ騒ごうが、見事なまでに無関心であったのだが、ここ最近になって、その状況に多少の変化が現れてきていた。
一年半程前に、長年男やもめを通してきた父親が再婚したのである。相手もまた母子家庭だったので(正確には叔母と姪だったが)、義母と義妹が出来たのであった。それだけなら彼の生活環境に何ら影響は無かったであろうが、様々な事情が複雑に絡み合った挙句に、その義妹と恋仲になったため、状況に変化が生じたのである。
といっても、(誕生日はともかくとして)世間一般における「恋人同士のイベント」という代物に全く興味が無い、という基本的な性格が変わった訳ではないので、恋人としては些か難物である事には変わりは無かったのであるが。
二月十四日。言わずと知れたバレンタインデーの午後、りんは学生鞄と一緒に、膨らんだ紙袋を少し持ち難そうに提げて家路についていた。
(……一旦、家に置いてこないと、荷物になるよね)
今日は学校帰りに直接殺生丸の所に行って、チョコレートを渡そうと思っていたのだが、予想外に荷物が増えたため、一度家に帰ってから向かった方が良さそうだ。
(お兄さん、帰ってるかな)
駅に着いたら、メールして確かめよう、と思いつつ歩いていると、後ろで車のクラクションが鳴るのが聞こえた。聞き覚えのない音だったので、気にも留めずに歩いていると、その背に今度は声がかけられた。
「犬塚さん」
「……?」
珍しい呼ばれ方に――友達や両親の知り合いは大抵彼女を名前で呼ぶので――、少し怪訝な表情をしながらも振り向くと、路肩に止められた車の運転席の窓から、若い男が笑顔で身を乗り出していた。
「ああ、やっぱり、殺生丸の妹さんでしたね」
にこりと人懐こい笑顔でそう言われて、りんは漸く相手の顔を記憶の中から拾い出すことが出来た。
「……えっと……お兄さんの、大学のお友達の方、ですよね?」
「ええ。学祭の時にお会いしましたね」
たどたどしく確認してくるりんに、人当たりの良い笑顔で頷いてみせる。その笑顔を見ながら、名前を思い出そうとしているりんの様子を見て取ったのか、男は自分から口を開いた。
「弥勒ですよ。――以前お会いした時は、まともに名乗ってませんでしたね、そういえば」
小さく苦笑してそう言う彼に、りんは慌ててかぶりを振った。
「いえ、あの……あたしが、ちゃんと覚えてなかったから……」
申し訳無さそうにそう言ってくる少女の様子に、弥勒は少し考え込むような目線を向けた。
「――良かったら、乗って行きませんか? 家まで送りますよ」
「え?」
弥勒の突然の申し出に、りんが目をぱちくりとさせる。
その反応を新鮮な感覚で眺めながら、弥勒は更に畳み掛けるように言葉を続けた。
「ご心配なく。私は自分の身が可愛いですからね。――殺生丸の妹さんに、何かしようなんて命知らずな事は考えてませんよ」
「……でも、」
荷物が多いので、正直、その申し出はありがたかったのだが、義兄が知ったら決していい顔をしないであろう事は容易く予想できるだけに、りんの反応はどうしても躊躇いがちになってしまった。
「それに、今ならもれなく特典も付いてきます」
「特典?」
どこぞのTVショッピングの宣伝文句のような台詞に、りんの顔がますます怪訝そうなものになる。それを見ながら、弥勒は――それこそセールスマンばりの笑顔で――手の内を明かしてみせた。
「殺生丸の高校時代のエピソードとか……話せる範囲内に限られますが、いかがですか?」
「え……」
それを聞いて、りんが考え込むような表情になる。
好きな人の事は、なるべく沢山知っておきたい、というのはごく自然な感覚である。殺生丸はあまり自分の事を話すような男ではないので、彼についての情報はどうしても少なくなる。実父の闘牙にしても、殺生丸が子供の頃は仕事が忙しく、あまり一緒に過ごしてはいなかったため、彼について充分に知っているとは言い難い。
にこにこと人好きのする笑顔を浮かべている弥勒の顔を暫くじっと見つめてから、りんは思い切ったようにこくりと頷いた。
五分後、とりあえずは自宅に送ってもらうことで話が纏まり、りんは弥勒の車の助手席に座っていた。
「……それにしても、大荷物ですね」
「ええ……」
りんが膝の上に抱えている紙袋をちらりと見やってそう言う弥勒に、りんは楽なように荷物を抱えなおしながらそう答えた。
袋の中身が色とりどりにラッピングされた可愛らしい包みであるのを確認すると、弥勒はハンドルを切りながら言葉を繋げた。
「頼まれ物ですか?」
「え?」
「紙袋ですよ。――チョコレートでしょう?」
今日がバレンタインである事を考えれば、包みが何であるかという事は容易く予想できる。そして、彼女の義兄である殺生丸が(外見だけは)とびきりの極上品である事も考え合わせれば、彼に渡して欲しいと頼まれたのだろうと弥勒が予想するのはある意味当然の帰結であった。
「確かにチョコですけど……」
りんはきょとんとした顔になって弥勒を見返すと、小首を傾げて後を続けた。
「あたしあてですよ、これ」
「――は?」
りんの返事に、間の抜けた声を上げて思わず彼女の方を振り向いた弥勒に、慌てたようにりんが「前を向いてくださいっ」と小さく叫ぶ。その言葉に弥勒もすぐに姿勢を正して、進行方向に顔を向けた。
「……貴女宛、ですか?」
「ええ。……友達とか、先輩とか……」
「……女の子、からですか?」
せめて男子から貰った、というのなら(通常の日本的なバレンタインとは異なるが)まだいいのだが、と思いつつ、確認するようにそう訊いて見る弥勒だったが、あっさりとそれは打ち砕かれた。
「そうですよ」
「……」
自分たちの母校は男女共学だったはずだが、と思わず遠い目になってしまう弥勒であった。
「弥勒さんたちの頃は、お友達同士でチョコのやり取りとか、しなかったんですか?」
「……いえ、あまり聞いたことはないですね」
もしかしたら、女子の間ではあったのかもしれないが、ここまで大量にチョコを貰う子がいなかったので、目に付かなかったのかもしれない。
……しかし、女子高ならともかく、共学で同性からここまでチョコレートを貰う、というのは一体どういうものなのだろうかと、ついつい考えてしまう。単に『友達同士でのプレゼント交換』にしては、ラッピングなどが妙に凝っている様な気がするのだが。
(……まあ、確かに、男女どちらからでも好かれるタイプの子ではあるんですけど)
ずっと母子家庭で、決して裕福ではない生活を送ってきたというが、だからといって自己憐憫に浸るような所もなく、今時珍しいくらい素直で真っ直ぐな気性の少女である。少しばかり世間知らずな一面もあるようだが――いくら義兄の知り合いだからといって、見ず知らずの相手と言っていいような自分の車に乗ったことからもそれは窺えた――、そこが却って(同性異性を問わず)保護本能というか、庇護意識をかきたてられるのであろう。
(全く……殺生丸にはもったいない、いい子なんですけどね……)
弥勒が内心でそんな事を考えているとは知る由もなく、りんが無邪気に話しかけてくる。
「ふうん……あ、お兄さんって、やっぱりバレンタインの時は沢山チョコ貰ってたんですか?」
りんのその問いかけに、殺生丸の高校時代のエピソードを話す約束だったのを思い出して、弥勒は頭を切り替えることにした。
「……まあ、貰っていたといえば貰っていたんでしょうけど……」
何となく歯切れの悪い弥勒の言葉に、りんが不思議そうな顔になる。
「手元にはひとつも残さなかった、という意味では……貰ってなかった、とも言えるかもしれませんね」
「……は?」
弥勒の説明にりんが軽く眉を寄せる。それを視界の隅に捉えながら、弥勒は高校の頃を思い出して小さく苦笑した。
「あの容姿ですから、それこそバレンタインには、燃える女子が多かったですけど……面と向かってチョコレートを差し出されても、無視して素通りしてましたからねぇ……」
「……」
「大抵は完全に無視でしたが……先輩とかだとそう無碍にも出来ませんから、一言断りはいれてましたね」
「……何て、言ってたんですか……?」
最初は興味深そうだったりんの表情が、段々と翳っていくが、運転に集中しつつ当時を思い返していた弥勒がそれに気づく事はなかった。
「確か……『製菓会社の思惑に乗る気はない』でしたかね。――まあ確かに、バレンタインにチョコレート、というのは製菓会社の販促キャンペーンみたいなものではあったんですけど」
「そう……ですか」
弥勒の話を聞いたりんが俯いて、膝の上に置いた鞄をぎゅっと抱きしめる。
バレンタインというのは(キリスト教圏の国では)ほぼ全世界的なイベントではあるが、女性から男性にチョコレート(と告白)といった形式を取っているのは日本だけである。そしてそれが、製菓会社の宣伝によるものであった、というのはりんも聞き知ってはいた。
だが、たとえそうと分かっていても、二月十四日という日に合わせてチョコレートを用意する、ということは年頃の少女にとって特別な意味を持つ事であったのだ。
「何しろ、ああいった男でしたからね、面と向かっては無理だと思った子達が――古典的ではありますけど――机の中とかに入れてたりもしましたが……」
「……どうなったんです?」
「纏めてゴミ箱へ捨てようとしてましたね」
りんのおずおずとした問いかけに、弥勒は苦笑交じりにそう答えた。
「……流石にそれは止めましたけど……そうしたら、今度はこっちに押し付けてくるんですから、全く……何を考えていたんだか」
「……」
「せめてカードくらいは読んでやれ、と言ったら『そんな暇はないし、そんな事をして、余計な関わりを持つ気もない』なんて、しれっとした顔で言うんですから……全く、あの頃から本当に可愛げのない奴でしたねぇ……」
「……で、でも……お兄さん、その頃……お、おつきあいしてた人がいたんじゃなかったですか?」
「付き合ってた人?」
りんの訴えるような問いかけに、あの頃の殺生丸にそんな相手がいただろうかと、首を傾げた弥勒だったが、ややあって記憶の引き出しから該当するものを引っ張り出す事に成功した。
「……ああ……確か、生徒会で書記をやっていた子と、一時期付き合ってたみたいでしたね」
何て名前だったかな、と小さくぼやく弥勒に分からないように、りんはそっとため息をついた。
本命がいたから受け取らなかった、と考えたかったからだが、続いての弥勒の言葉にその淡い安堵感も粉々にされる。
「もっとも、彼女からも受け取ってなかったから……単に面倒だった、というのが一番正確なところだったのかもしれませんね」
少なくとも弥勒の記憶にある限り、高校時代の殺生丸がバレンタインにチョコレートを受け取って、手元に残していたという覚えはなかった。(ちなみに、大学に入ってからもそれが続いていることを考えると、ある意味筋金入りと言えるかもしれない。)
「ああいうのは、受け取ったりしたら、女の子と言うのはやはり、それなりに期待しますし……」
実際、三月十四日(いわゆるホワイトデー)に、返事を期待して殺生丸に声をかけてきた女子が、彼のあまりにも冷たい態度にその場で泣き出してしまう、といった事も一度や二度ではなかったのだ。しかも、泣いている相手に対して一片の感情も見せる事無く「一方的な期待を押し付けられるのは迷惑だ」などと言ってのけたのである。
素っ気無いとか冷たいとか言う以前に、人間としてどうかと言いたくなるような言動である。
「……あの男に、まともな返事とかを期待しても無理だって、二年目にもなれば判りそうなものなんですけど……結局、卒業するまで似たような事の繰り返しでしたね」
流石にりんにそういった状況をそのまま伝えるわけにもいかず、曖昧な表現で誤魔化すが、既にかなり沈み込んでいるりんにとっては大した違いはなかった。
鞄の中に入っているチョコレートは、母と一緒に作ったものだ。トリュフとココアクッキーを小箱に入れ、シックな雰囲気を出せればと思って選んだ、英字新聞風のラッピングペーパーとダークグリーンのリボンでラッピングしてある。あまり甘いものが好きでないことは知っていたから、チョコレートはビターチョコを基本にしてブランデーを多めに入れ、クッキーも甘さをかなり控えていた。
去年は色々とあって、きちんとチョコレートを渡せなかったから、今年こそはと思って、張り切って準備したのだが、弥勒の話を聞いているうちに、浮き立った気分は穴の開いた風船のように萎んでいった。
確かに冷たくて素っ気無い所もあるが、自分からのプレゼントを突き返すような事をする人ではないから、受け取ってはくれるだろう。だが、本心では迷惑だと思うのではないだろうか? 甘いものがあまり好きではない事を知りながら、世間に流されるようにチョコレートを用意した事に呆れるのではないだろうか?
助手席の雰囲気が変わったのに気がついて、弥勒がそちらに視線を流すと、俯いて表情を隠したりんの唇から小さくため息が零れるのが眼に入った。
その瞬間、弥勒の背を嫌な汗が伝い下りていった。
(……ま、まずい……)
表面上は見事なまでに穏やかな表情を浮かべたままではいたが、内心は焦りで一杯である。ついつい調子に乗って話してしまったが、今現在、真剣に殺生丸のことを想っている少女に聞かせるには――本当に酷い部分は誤魔化したとはいえ――、あまりにも最低な内容であることに思い至ったのだ。
この少女ときちんと顔を合わせたのは、去年の学祭の時だけであるが、その前からその存在については薄々と気づいてはいた。
何しろ、御世辞にも素行がいいとは言い難かった男が、ここ一年ばかり女性を近づけようとしていなかったのだ。何かあると考えない方がおかしい。とうとう本命の女性が現れたかと思ったのは間違っていなかったが、その相手が父親の再婚相手の連れ子(つまりは義理の妹)だったというのは、かなり意外であった。まさか、殺生丸のようなタイプの男が、家族になった相手に手を出すとは思わなかったのだ。これは別に道義的な問題がどうというのではなく、そんな事をして波風を立てるような事を、あの面倒臭がりなところのある男がするとは思えなかったためである。
どんよりと落ち込んでいるりんを横目で見て、弥勒は必死で言葉を探した。しかし、日頃は恋人から「口八丁」とからかわれているというのに、肝心な局面では何も気の利いた台詞が思いつかない。
「……ま、まあ、これは本当の『本命』がいなかったころの話ですから、今のあいつには当てはまらないと思いますがね」
結局、口を突いて出たのは、そんな月並みな台詞であった。
「何しろ、今の殺生丸にはあなたという『本命』がいるんですから」
そう言って、にこりと笑いかけて――少しばかり引きつってはいたが――みるが、りんは俯いたまま弥勒のほうを見ようとはしなかった。
「……どうも、ありがとうございました」
「いえいえ、気にしないで下さい」
別れ際、固い表情でぺこりと頭を下げたりんに、弥勒は――表面上は――穏やかな表情でそう答えた。そうしながら、りんにそれと悟られないように、周囲に視線を走らせて殺生丸の車がないことを確認する。
(……当分、あいつには近寄らないでおこう……)
内心そう思いながら、「それでは」と軽く会釈して車を出す。それを見送ってから、りんも家に入った。
「ただいま」
「お帰りなさい。……あら、殺生丸さんは一緒じゃなかったの?」
家の奥から顔を出した十六夜が軽く首を傾げる。車の音がしたと思ったんだけど、と言う母に、義兄の友達に送ってもらったのだと話すと、十六夜は少し意外そうな顔になった。
「だったら、上がってもらえばよかったのに」
「……うん」
いつもの自分だったらそうしていただろうが、あの時はそんな事にまで頭が回らなかったのだ。
「着替えてから、殺生丸さんのところに行くんでしょう? お夕飯はどうする? 食べてくる?」
「……ううん、家で食べる」
「食べてから行くの?」
娘の様子がおかしい事に気がついて、十六夜が少し身を屈めて彼女の顔を覗きこんでくる。母の視線を避けるようにりんは身を引いて、着替えてくると言って二階の自室へと上がっていった。
「……?」
その後姿を見つめて、十六夜は小首を傾げた。何やら落ち込んでいるのは判るのだが、原因は皆目見当がつかないのだ。
年頃の娘の悩みと言えば恋人に関するものが筆頭に挙げられるだろうが、それとも少し違うような気がする。それに、もし殺生丸絡みだとすると、義父である闘牙に気を遣って、却って何事もなかったように振舞うのではないかと思うのだ。
(……でも、殺生丸さんの事以外で、そう悩むような事も無いと思うし……)
自分で言うのも何だが、親子関係は極めて良好であるし、家庭内に特に問題があるわけでもない。(あるとするなら、それこそりんを巡っての父子間の冷戦くらいなものである)学校内で何もないとは言い切れないが、深刻なものならちゃんと話してくれるだろう、という確信が十六夜にはあった。
(一体、何なのかしら?)
釈然としないものを感じながらも、自分から話す気になるまでそっとしておく事に決めて、十六夜は夕飯の支度に取り掛かることにした。
りんはベッドに寝転がってぼんやりと天井を見上げていた。
頭の中では弥勒の言ったことがぐるぐると渦を巻いている。
確かに、思い返してみれば、いわゆるイベント事にはあまり興味を示さないタイプの人ではあった。
(クリスマスだって……お母さんが誘わなかったら、来なかったかもしれないし……)
考えれば考えるほど、思い当たる節がありすぎて、ますます気が滅入ってくる。
くるりと寝返りを打つと、お気に入りのペンギンの抱き枕を抱きしめて、深々とため息をついた。
自分からのプレゼントを受け取らないという事はないだろうから、受け取ってはくれるだろうが――食べてはくれないかもしれない。頑張って作ったものが、一番食べてもらいたい人の口に入らずにゴミ箱行きになるかもしれないと思うと、更に気が重くなる。
「……」
ちらりと、机の上に置いたままの携帯電話に眼をやる。
メールして、殺生丸が帰宅しているかどうかを確認するつもりだったのだが、結局、一文字も打たずじまいで机の上に置いたままになっている。
りんは深いため息をつくと、ペンギンのふかふかしたお腹に顔を埋めて眼を閉じた。
その日、殺生丸は朝から不機嫌極まりなかった。
恋人達のイベントだか何だか知らないが、朝からチョコレートを渡そうとしてくる――彼にとっては「押し付けようとしている」としか思えなかったが――女性が入れ替わり立ち代り現れて、落ち着いて何かをする事が出来なかったのだ。
元々こういったイベントに興味がない上に、他人に自分のペースを乱されることを何よりも嫌っている殺生丸にとっては、実にストレスの溜まる一日であった。
今日は、腰を据えて作業をしていた時間より、纏わりついてきた女性達を追い払っていた時間の方が絶対に多かった、と苦々しく思い返す。
漸く大学での用事を終えてマンションに戻ると、ノートパソコンを机の上に置いて、ローソファーに身体を沈める。コーヒーでも飲みたいところだが、今は何もしたくない、というのが正直な所であった。
一人暮らしは気楽だが、こういう時には不便だな、とぼんやり考えつつ、鞄を探って携帯電話を取り出す。いくつかメールは入っているが、肝心の相手からのそれは入っていない。
殺生丸は怪訝そうに少し眉を寄せた。いつもなら、高校の昼休みや放課後の時間帯に、その日の事を色々と綴ったメールが入っているのだが、今日は一件もない。
「……」
無言のまま、事務的にメールをチェックすると、携帯電話を閉じてテーブルの上に置く。それから漸くコーヒーを淹れるために立ち上がった。
ほぼ毎日、殺生丸の携帯電話にはりんからのメールが入ってきていた。(流石に試験期間中などは途切れがちになっていたが)内容は学校での出来事や家族の近況など、はっきり言ってしまえば他愛のないもので、以前の殺生丸なら一文字も読む事無く破棄していただろうと思われるものであった。しかし今は――年頃の少女からのメールでは珍しくも無いが――、カラフルな絵文字がちりばめられたファンシーなメールに目を通す事が彼の『日常』の一部になってしまっていた。
今日は(自分にとってはそれこそどうでもいい事だが)バレンタインデーだから、絶対にメールが入っていると思っていただけに、何やら拍子抜けしたような感じである。
殺生丸本人はイベントには興味がないが、りんがそれに合わせて何かをしたい、というのに付き合うのは別に嫌いではなかった。というより、そういった事を楽しんでいるりんの表情を見るのはなかなかに楽しい、というのが正直な所であった。
今まで、どんな女性と付き合っていても――高校時代からの悪友に言わせると「あんなのは付き合っているとは言わない」だそうだが――自分のペースを崩す事など考えもしなかったというのに、りんに対してだけは、それをするのに全くと言っていいほど抵抗を感じないのだ。
慣れた手つきでコーヒーを淹れながら、ちらりと机の上の携帯電話に眼をやる。
製菓会社の思惑などに興味はないし、甘いものも好きではないのだが、それでもやはり――あまり認めたくは無いが――気にならないと言えば嘘になる。あの義妹がこういったイベントに無関心な筈が無いと確信しているだけに、何の連絡も無いというのは妙な気がした。
まさかとは思うが、自分がこういったイベントに興味が無いのを察して、あえて何もしないことに決めたとでも言うのだろうか。
(……いや、それはないか)
殺生丸自身はこういった事に対して無関心であるが、りんに付き合う時にはそういった様子をあまりあからさまに出さないようにはしている。といっても、あまり積極的でないことも事実なので、もしかしたらその辺りから察したのかもしれない。
今ひとつはっきりしない状況に些かうんざりしつつ、殺生丸は濃い目のコーヒーを口にした。
夕食の後、りんは予習があるからと言って自室に籠もっていた。
その言葉の通り、机について、教科書やノートを広げてはいるものの、手をつけている様子は全然無い。
「……もうすぐ、バレンタイン終わっちゃうなぁ……」
携帯電話の液晶画面に表示された時刻を見ながら、りんはこの日何度目になるのか分からないため息をついた。
とにかく少しでも予習はしておこうと思って、英語の教科書をじっと見つめるが、視線はページを上滑りするだけで内容は全然頭に入ってこない。シャーペンを手にしてはみるが、結局一文字も書かないまま、開いたままのノートの上に置く。
りんが深いため息をついたのとほぼ同時に、部屋のドアがノックされた。
「――はい?」
椅子をくるりと回して振り向くと、ドアが細く開いて父が顔を覗かせた。
「ちょっといいか?」
「……いいけど。何? お父さん」
いつも用事があるときは、単刀直入に言ってくる父らしくもなく、何処と無く躊躇うような態度に、りんが小首を傾げる。
不思議そうな顔の娘を前にして、闘牙は内心の葛藤と戦っていた。
元々彼は大変に家族思いの男である。現在の家族を大事にしているのと同様に、早くに死に別れた先妻の事も大切に思っているし、その妻の忘れ形見である殺生丸の事も――どんなに可愛げが無くても――可愛いと思っている。いきさつはどうであれ、大事な息子と可愛い愛娘が両想いであるというのが事実である以上、二人の間に割り込んで波風を立てるようなことはしたくない――と、頭では理解しているのだ。
しかし、人間は感情の生き物でもある。いかに実の息子とはいえ可愛げの欠片もない男と、血の繋がりこそ無いが、純粋に自分を父親として慕ってくる可愛らしい少女とでは、後者に軍配が上がってしまうのも無理からぬ事であった。
とはいえ、今は可愛い娘のために、感情より理性を優先させなくてはいけない時でもあると解っていたので、一つ深呼吸してから口を開いた。
「出かけるから、準備をしなさい」
「え?」
「……殺生丸のマンションまで送るから、チョコレートを渡してくるといい」
父の言葉にりんが眼を見開いた。信じられないような表情で、何度か瞬きをして闘牙の顔を見上げてくる。が、すぐに寂しそうな表情になって俯いた。
「……で、でも……お兄さん、甘い物とか好きじゃないし……」
ややあって、りんがそうぽつりとつぶやくのを聞いて、闘牙は今ここにいない息子を絞め殺したくなった。
「……バレンタインのチョコを、そんな理由で断るような大馬鹿者だったら、速攻で振って来い」
かなり本気度の高い殺意を押し殺して、あえて軽い口調でそう言うと、漸くりんの顔が少し明るくなった。
夕食の後片付けをしてしまうと、殺生丸は手持ち無沙汰気味にパソコンの前に座っていた。習慣的にいくつかのレポートを見直すが、内容が頭に入ってこない状態では意味が無い。
「……」
苛立ち気味に小さく舌打ちをすると、パソコンの電源を落としてキッチンに向かう。今は、コーヒーよりもっと強い飲み物で、このすっきりしない気分を追いやった方が良さそうだった。
棚からブランデーの瓶とグラスを引っ張り出すと、無造作に注いで一息に呷る。強い酒が喉を焼くのを感じながら小さく息をつくのと同時に、放り出したままの携帯電話が軽やかなメロディを奏でた。その音を耳にした瞬間、殺生丸の動きがぴたりと止まり、流しに瓶とグラスを置くと携帯電話を取り上げた。
『今から部屋に行きます』
一行だけのシンプルなメールが表示されている。
携帯電話を閉じて、玄関のドアを見やると同時に、チャイムの音が響いた。チェーンを外してドアを開けると、予想通りそこにはりんが立っていた。
「……どうした」
大体の予想はついていたが、あえてそう問いかけてみると、りんが思い切ったような表情で手にした包みを差し出してきた。
「……あ、あの……甘さは控えめにしてますから、だから……その……大丈夫だと……」
ぼそぼそとそう呟きながら、殺生丸の目線を避けるように少し俯き、綺麗にラッピングされた包みを持つ手は緊張のせいなのか僅かに震えていた。
「……」
両思い(一応)の相手にバレンタインのチョコレートを渡すのに、何故こんなにガチガチになる必要があるのだろうか。
そんな疑問を抱きつつも、チョコレートを受け取って、中に入るように促す。
「父上に送ってもらったのか」
「……うん」
殺生丸が受け取った途端、ほっとしたようにりんが肩の力を抜いた。それを視界の隅に捉えながら、座るように促して紅茶の準備をしていると、りんの携帯電話が鳴った。慌てたようにりんが電話に出る。どうやら父からかかってきたらしい。一言二言何やら話していたが、ややあって困惑したような表情になって、殺生丸の方に顔を向ける。
「……お兄さん。お父さんがちょっと話があるって……」
「? ――はい、何ですか。父上」
何の用だと思いつつも電話を受け取って耳に当てるが、次の瞬間、慌てて電話を持った手を遠ざけた。
『真面目に聞かんか!! この馬鹿息子!!』
スピーカー機能が不要なくらい、はっきりと聞こえてくる父の声に、りんも眼を丸くする。
「……だったら、普通の声で話してください」
心持ち耳から離してそう言うと、父も少しは自覚していたのか声を落とした。
『お前、りんにチョコレートがいらないとかそういうような事を言ったんじゃないだろうな?』
「は?」
改めて電話を耳に当てて通話を再開するが、いきなりそう切り出されて、殺生丸が眉を寄せる。
『お前があまり甘いものが好きじゃないのは知ってるが、いいか、バレンタインのチョコレートと言うのはな、個人の嗜好なんぞ超越した代物なんだ。何とも思っていない相手からならともかく、何処に出しても恥ずかしくない程、可愛くて優しくて文句のつけようのないいい子から、チョコレートを貰えるというのに、それを断るとは一体どういう了見をしとるんだ、お前は』
「……」
声の大きさこそ落としてはいるが、それでも妙な迫力を含んだ声で一息にまくし立てられて、殺生丸はただただ沈黙するしかなかった。
「……私はそんな事を言った覚えはありませんし、断るつもりもありませんでしたが」
それでも、身に覚えのないことで非難されるのは気に入らなかったので、一応そう答えておく。
『だったら、何でりんがあんなに落ち込んどったんだ』
「……知りません」
義娘を溺愛しているのは解るが、りんに何かがある度に自分のせいにするのは止めて欲しいものである。
『……まあいい。とにかく、ちゃんと受け取ってやるんだぞ』
「もう受け取りました」
『…………三十分経ってもりんが降りてこなかったら、そっちに行くからな』
その言葉に、窓の方に行って下を見下ろすと、街灯の下に見覚えのある車が見えた。ついでに、その横に立つ長身の男性の姿も。
「……茶を飲む時間くらいは待ってもらいたいものですね」
『言っておくが、明日は平日だ。……お前も大人なら、ある程度の分別は弁えておけ』
「ちゃんと下まで送りますから、ご心配なく」
『……』
電話の向こうの父の顔が容易く想像できるような沈黙が返ってくる。
「りんに代わりますか?」
『いや、いい』
「では、失礼します」
そう言って電話を切ると、りんに渡す。
「茶を淹れるから、座ってろ」
幸い、長話はしなかったのでちょうどいい感じに茶葉は開いていた。りんの分はカップにミルクを入れてから紅茶を注いでミルクティーにし、自分用にはストレートで淹れる。りん専用になっている猫の形のシュガーポットと揃いの陶器のティースプーンを用意すると、一緒に盆に載せてソファで待っているりんの前に置いてやった。
「ありがとうございます」
ようやく落ち着いた様子で紅茶のカップを受け取って、笑顔を向けてくる。その隣に腰を下ろして、りんが紅茶を飲むのを見ながら、殺生丸はさっきの父からの電話で更に深まった疑問を口に出した。
「……今日、来るのが遅くなったのは何か理由があるのか?」
なるべくいつもと同じ口調でそう訊くが、りんが軽く噎せるのを見て、どうやらこちらが思っていたより根が深そうだと考え直した。
「……えっと……その……」
殺生丸にそう訊かれて、りんは居心地が悪そうに少し身じろいだ。確かに、喧嘩中でもないのに、バレンタインデーに彼氏と連絡を取ろうとしない、というのは妙な話ではある。
「――私が、チョコを受け取らないとでも思ったのか」
りんが頭の中で一生懸命に言葉を探していると、心中を見透かしたようにそう言われて、反射的に身体が強張ってしまう。そっと隣を窺ってみると、殺生丸の表情はいつもと特に変わった様子は無い。とはいえ、下手な誤魔化しが利くような相手ではないので――そもそもりんにそんな事は無理だったが――、きちんと理由を話さないわけにはいかないようだった。
ぎくりとしたように身体を強張らせたりんを見て、殺生丸はやはりそうだったかと、内心で嘆息した。しかし、何故そんな風に考えたのかという事まではよく解らない。
「……お兄さん、バレンタインとかに、あんまり興味がないんじゃないかって……そう思って……」
ややあって、りんがぽつりとそう切り出してきた。
「……」
「チョコとか……迷惑じゃないかなって……そう考えたら、何だか落ち込んじゃって……」
「……」
確かにイベントの類にもチョコレートにもさほど興味はないが、だからといって「本命」からのそれを拒むような事をする気はない。ましてや迷惑などと思うはずもなかった。
「……確かに、そういったイベントに興味はないが……」
言葉を選びながらそう切り出すと、りんの肩がびくりと震える。それを視界の隅に収めながら、殺生丸は後の言葉を続けた。
「『本命』から貰えないとなると、やはり気になるな」
「……え」
続けられた言葉に、りんが何度か瞬きをする。
「大体、お前からのチョコを迷惑だなどと思う筈がないだろう。……一体、どこをどうすればそういう考えに行き着くんだ」
少し困ったように眉を寄せて見上げてくるりんの髪に手を伸ばして軽く梳いてやると、まだ少し強張っていた肩から力が抜けていくのが伝わってくる。
「……でも、お兄さん、付き合ってた人からのチョコも受け取ろうとしなかったって……聞いたから。――甘いものとかも好きじゃないし……」
「…………誰からそんな事を聞いたんだ」
それでもどこか不安そうな顔でそう言われて、殺生丸は内心で歯軋りしながらも、表には出さずにそう訊き返した。
「………お友達の……弥勒さん」
「……」
あいつか。
りんの口から出た名前に、殺生丸の頬がぴくりと引きつった。頭の中で、明日からの予定に新たな項目を付け加えながらも、それについては後で考える事にして、今はりんを宥める事を優先させる事にする。りんは、基本的な性格は明るくて前向きだが、妙な所で依怙地な部分も持ち合わせており、そのせいか、一度マイナス視点に思考が向いてしまうと、とことんまで沈んでしまう傾向がある。下手な言葉をかけるとますます内に籠もってしまいかねないので、殺生丸は行動で示してやる事にした。一旦りんの髪から手を離すと、ソファテーブルに置いてあったチョコレートの包みに手を伸ばして、包装を解いていく。小さな箱の中に、少し不揃いのトリュフチョコとココアクッキーがそれぞれ三つずつ入っている。りんがじっと見つめてくるのを感じながら、チョコレートを一つ取り上げると、口に放り込んだ。
「……まあまあだな」
ややあって、殺生丸がそう呟くのを聞いて、りんがほっとしたような表情になる。不味い場合は容赦なくそう言う男だから、「まあまあ」というのは充分に合格の範囲内なのだ。
実際、口の中に広がる濃厚なカカオの風味とブランデーの香りは、それほど悪いものではなかった。チョコレートだからどうしても甘いのは仕方が無いが、このくらいなら甘いものが好きでなくても、まあ普通に食べられる。(ただし、これほど洋酒が多く入っていたら、運転前には食べないほうが良さそうだったが)
「作る時に味見はしたのか?」
良かったと胸を撫で下ろすりんの顔を見下ろして、そう訊くと、りんは頭を振った。
「ううん。お母さんが、あたしは食べない方がいいって言ったから……お酒が多いし」
クッキーの方は少し試食したが、トリュフの方は洋酒が多いので母に止められたのだと話すと、殺生丸の瞳に面白そうな光が浮かんだ。それに気がついたりんが、ぎくりとしたようにソファの反対側に後ずさる。義兄がこういう目付きをした時は要注意だと、経験上悟っていたからだ。
「……あ、あの……お兄さん? ……ちょっと、待っ……!」
だが、りんが立ち上がる前に殺生丸の左手が彼女の腕を捕らえて、自分の方に引き寄せる。そのまま力強い腕の中に抱き込まれて、りんの心拍数が一気に跳ね上がった。反射的に顔を上げると同時に、端正な顔が視界一杯に広がり、薄く開いた唇を塞がれていた。
「……んぅっ……」
柔らかく啄ばんでくるような唇の感触に、りんが鼻にかかったような声を洩らす。右手を髪に差し入れて引き寄せながら更に深く口付けると、りんの身体から余分な力が抜けて殺生丸に柔らかく凭れかかってきた。くたりと力の抜けた華奢な身体を抱き寄せると、空いた手を伸ばして残ったチョコレートを摘み、一旦唇を離した。
「……あ……ふぁ……」
解放された小さな唇から、濡れた艶めいた吐息が零れる。濡れた唇を拭うように指先を這わせると、りんが薄く眼を開いた。潤みを帯びた黒瞳に見上げられて、殺生丸の背にぞくりとしたものが走るが、何とかそれを押さえ込むと、薄く開いた唇にチョコレートを押し込んだ。
「――んっ?」
りんが驚いたように眼を見開くが、抗議の声を上げるより先に、再び唇が塞がれていた。とろりとチョコレートが溶けて、口の中に濃厚なブランデーの風味が広がる。それと同時に舌を絡め取られて、頭の芯がくらくらするような酩酊感がじわりと身体を侵食していく。
「……ん……」
ふらつく身体を支えようとするかのように、細い腕が殺生丸の首に回される。懐くように擦り寄ってくる柔らかな身体の感触に、殺生丸の裡に先程抑えこんだ感覚が甦ってくる。いつもなら制御できる感覚が、少し前に飲んだブランデーのせいなのか、思うようにならない。久しぶりの恋人の感触を堪能しがてら、ちょっとした遊び心で仕掛けた行為に、思っていたよりずっとのめりこんでいる自分がいるのを、こんな時でさえ醒めた意識の片隅で認識する。
りんの柔らかな黒髪を右手で梳きながら、時折指先で細い首筋を辿るようにすると、腕の中の華奢な身体がびくりと震えた。空いた手でニットのセーターをたくし上げて素肌に触れると、りんがはっとしたように腕の中で身じろいだ。
「……んっ……ちょっ……待っ……」
小さく抗議の声を上げながら、首に回した手で殺生丸の髪を引っ張るが、殆ど力の入っていない状態では抵抗にもならなかった。
「……あっ……やぁ……!」
小振りな胸の膨らみを直に掌に包み込まれて、りんがびくりと身体を震わせる。髪を引っ張っていた手から力が抜け、ただ添えられているような状態になったのを感じ取って、薄く笑みを浮かべると、そのまま唇を首筋に落としていく。
この瞬間、殺生丸(とりん)の脳裡からは、明日が平日である事や、下で父親が待っていることなど綺麗に抜け落ちていたのであったが、そうは問屋が卸さなかった。
ソファテーブルに置いたままにしてあったりんの携帯が、軽やかなメロディを奏でる。
その音を耳にした途端、夢見心地だったりんの表情がはっとしたものになる。慌てて殺生丸の腕から抜け出そうと身を捩るが、その動きを利用されて逆にソファに押し倒されてしまった。
「……放っておけ」
「だ……だって、お父さんから、だから……出ないと……」
まだ余韻は残しているものの、頭はそれなりにはっきりしたらしいりんが手を伸ばそうとするのを捕らえて、ソファに押し付ける。
「放っておけばいい」
「で、でも……出ないと……お父さん、上がってくるかもしれないし……」
りんの言葉に、殺生丸の頭にも漸く理性の働く余地が出来る。
一人暮らしの習慣で、りんを入れた後は鍵とドアチェーンもかけてはいるが、父には合鍵を渡してある。
殺生丸の部屋はワンルームなので、ドアを開けたら部屋の中は丸見えである。当然の事ながら、ソファも玄関から見える位置に置かれているので、もしドアを開けられたら(ドアチェーンで見える範囲は限られるが)何をしているのかは一目瞭然である。
……そうなった場合、あの父親ならドアを壊してでも入って来かねない。
「……」
数秒間でそこまで考えを纏めると、殺生丸は――かなり不本意であったのは言うまでもないが――身体を起こしてりんの上から退いた。
りんが慌てて携帯に手を伸ばして電話に出る。父親に、電話になかなか出なかった事を謝りながら、片手で乱れた髪を梳いて整える。それを横目で見ながら、殺生丸も大きく息をついて身体の奥に燻る熱を抑え込んだ。
「……はい、今から降りていくから……大丈夫だよ、お兄さんが送ってくれるから。……それじゃ」
電話を切ると、ふうと大きく息をついて、たくし上げられてしまったセーターの裾を引っ張って下ろして身仕舞いを整える。キスで赤くなった唇だけは誤魔化しようがないが、外の暗がりで何とか気づかれずに済む事を祈るしかない。
隣を見ると、殺生丸が立ち上がって冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しているところだった。そのままごくごくと二口ほど飲むと、熱を冷まそうとするようにボトルを額に当てている。
「……」
大丈夫かと声をかけるのも何だか違うような気がして、りんが躊躇っていると、殺生丸の方から「下まで送る」と言って来たので、慌てて立ち上がって義兄の後について行った。
闘牙は愛車に凭れて、苛々した様子で息子の住むマンションを見上げていた。
娘を送り届けてから三十分以上経ったので、先程りんの携帯に連絡したばかりだ。
「……」
すぐに降りてくる、と言った以上、りんを送り届けないわけには行かないだろうから、今頃はエレベーターで一緒に降りているであろう。
実際、数分後には――彼の主観ではもっと長く感じられたのだが――息子達がマンションのエントランスから出てきた。小走りに駆け寄ってくる愛娘の姿に、思わず相好を崩しかけた闘牙だったが、りんの姿がはっきりとしてくるにつれて、その笑顔がぴしりと凍りついた。
りんの顔は明らかに不自然に(と、彼には思えた)上気して赤くなっており、そして何より夜目でもはっきりと判るほどに唇が赤くなっていた。
少なくとも、ある一点においては何があったかは一目瞭然である。
「……」
それでも、長年ビジネスマンとして培ってきた経験を生かして、何とか内心の動揺を表には出さないようにするが、りんの後ろからゆっくりと歩いてくる殺生丸には気づかれたらしい。
いかにも小馬鹿にしたように軽く唇の端を上げる息子を見て、闘牙の頬がぴくぴくと引きつるが、りんに対しては何とか穏やかな表情を向ける。
「早く車に乗りなさい、冷えるぞ」
「はあい」
心もち俯くようにして車に乗ろうとするりんの背中に、殺生丸が声をかける。
「りん」
「……はい?」
「土曜日、特に予定がなかったら、映画でも観に行くか?」
瞬間、闘牙の表情が傍目でもはっきりと分かるほどに険しくなり、それとは対照的にりんの表情がぱあっと明るくなる。だが、次の瞬間に少し考え込むような表情になり、傍らの父親を見上げる。
「……行ってもいい? お父さん」
心なしか不安そうな響きがあるのは、義父と義兄が冷戦状態なのを彼女なりに感じ取っているせいであろうか。
ちらりと息子の方に目をやれば、こちらは憎たらしいまでに余裕綽々の状態である。
――愛娘(りん)がここまで楽しみにしているのを、無碍に却下できますか?
そう言わんばかりの態度でこちらを見やる息子に、かなり本気度の高い殺意を覚えつつも、表面上は落ち着いたままで思考を巡らせる。
「……」
暫し考え込むように視線を泳がせていた父が、ややあってにやりと笑みを浮かべた時、殺生丸はふと嫌な予感を覚えた。
そしてその予感が的中するのに、さほどの時間は必要としなかったのである。
「……ああ、構わないよ」
父の返事を聞いて、りんが顔を輝かせる。それを見下ろしながら、闘牙は更に言葉を継いだ。
「――ちょうど、十六夜が春物を選びたいと言っていたから、久しぶりに家族揃って出かけるのも悪くはないしな」
「……!」
それを聞いた途端、殺生丸の表情がぴくりと引きつった。だが、もう一人の当事者であるりんの表情はそれとは対照的に、ますます明るくなったのである。
「そうなの? じゃあ、久しぶりに一緒に出かけられるんだ」
満面の笑顔で父を見上げるりんを見て、殺生丸は父に険しい視線を向けたが、これは余裕たっぷりに受け止められる。
――私の提案に反対して、りんを落ち込ませる事が出来るか?
父親の目線があからさまにそう言っているのを感じ取って、殺生丸は内心で舌打ちした。
赤ん坊の頃に実の両親と死別し、母方の叔母である十六夜と二人暮しだったりんは、「家族」というものに対して人一倍思い入れが強い。特に、「父親」という存在に無縁だったせいか、闘牙の事は実の父親のように慕っている。(そのあたりが、この父子の冷戦の理由のひとつでもある)
そのせいなのか、りんは家族との時間をとても大切にしている。例えば、両親のどちらか(あるいは両方から)と出かける約束と、殺生丸(彼も家族ではあるのだが、この場合は恋人としての例である)との約束が入っていた場合、りんが優先するのは「先に約束をしていた方」である。
この年頃の少女であれば、恋人との約束を何よりも優先させそうなものであるが、りんにはそういったところがあまりないのだ。(これは、恋人が家族の一員でもあるという事に起因しているのかもしれない)
今のような状況の場合は、まだ明確な約束を交わす前ということもあって、父の提案の方が若干有利に作用している。この状況で、あくまでも「二人だけで出かける」という事に固執したら、りんに後味の悪い思いをさせることになる。
「……」
そこまで考えて、殺生丸は小さくため息を吐いた。
どうやら、今回は父に一歩譲った方が良さそうである。
映画の上映時間の都合などもあるので、待ち合わせの時間については前日に連絡するということになった。りんが観たい映画の候補をいくつか挙げ、殺生丸が上映時間を調べておく、という事で話は纏まり、父と義妹の乗った車が走り去るのを見送ると、殺生丸はおもむろに携帯電話を取り出して、とある人物にメールを打ち始めた。
(――そうそう思惑通りには行かせませんよ、父上)
そう内心で呟くと、整った唇に薄く笑みを浮かべる。
――どうやら、週末に冷戦が再開するのは避けられないようである。
《終》
脱稿:2006.7.8
-
2006/07/08 |
- パラレル(義兄妹) |
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- ▲
クリスマス♪
聖夜の奇跡でしょうか。何とか(表の分だけですが)間に合いましたv
この話は裏に設定を載せている分の後日談になります。(多いな…このパターン…)
兄は闘牙さんとの父子家庭。りんりんは十六夜さんとの母子家庭。(ただし、りんりんの実母は十六夜さんの姉)で、親同士の結婚で義兄妹になります。
……裏のほうを知らない方のための補足としては、兄とりんりんは既に一線越えてます。そうなったきっかけは最悪だったりしますが。
それでは、「続きを読む」よりどうぞ。
[クリスマス♪] Read More↓
この話は裏に設定を載せている分の後日談になります。(多いな…このパターン…)
兄は闘牙さんとの父子家庭。りんりんは十六夜さんとの母子家庭。(ただし、りんりんの実母は十六夜さんの姉)で、親同士の結婚で義兄妹になります。
……裏のほうを知らない方のための補足としては、兄とりんりんは既に一線越えてます。そうなったきっかけは最悪だったりしますが。
それでは、「続きを読む」よりどうぞ。
傾向と対策
十二月である。
街中や個人の住宅にもイルミネーションが輝き、各種商業施設は歳末商戦にそなえて気炎を上げ、世の親達が子供へのプレゼントに悩み、独り者がクリスマスまでに恋人を捕まえようと焦る時期の到来である。
学生にとっては試験や面接の時期であり、社会人にとっても仕事の締め切りが厳しくなる厄介な月でもある。
そして、イベントに拘る人間と、そういったものに全く拘らない人間との明暗がくっきりと分かれる月でもあった。
「……クリスマスの予定?」
コードレスの受話器を肩に挟んだまま、パソコンの画面を見ていた殺生丸が怪訝そうな表情になる。
「ええ。今年のクリスマスは、ちょうど週末でしょ。だから、良かったらこちらで一緒に過ごしません?」
電話の相手は十六夜。殺生丸にとっては、父親の再婚相手で、義母にあたる女性である。
「あの人も休みで家にいるし、りんちゃんも冬休みに入ってるから、みんな揃うし」
「……」
その言葉に、ちらりと卓上カレンダーに眼を走らせる。確かに、二十四日は土曜であり、現在、修士課程一年である殺生丸もその時期には冬休みに入っている。
「――あ、それとも、りんちゃん連れて何処かに行く計画でも立ててました? ……だったら、無理にとは言いませんけど」
「……は?」
彼の沈黙をどう取ったのか、そう言ってくる十六夜に、殺生丸が小さく声を洩らした。既にパソコン画面からは完全に意識が逸れている。
目下の所、この義兄妹は一応婚約関係にある。一応、というのは、殺生丸の父親である闘牙が「りんにも他の男を好きになる権利がある!」と言い張って、完全公認にする事を渋ったためであった。(……そもそもの馴れ初めを考えたら、ある意味当然の反応であるかもしれない)
馴れ初めに大いに問題はあったものの、とりあえず今の二人が上手くいっている事は確かなので、りんの母親――正確には叔母だが――である十六夜の方は、二人に対して好意的である。
「……いえ、特にそういった予定はありませんが……」
おっとりしていても芯の強い所のあるこの義母については、殺生丸も一目置いていたので、応対も自然と丁寧になる。
「まあ、折角のクリスマスなのに、何も考えてなかったの?」
「……ええ」
実家で家族揃って一緒に過ごそう、という最初の申し出とは矛盾しているのではないだろうか、と思いつつそう答えると、呆れたような雰囲気が受話器の向こうから伝わってきた。
「……でも、それでしたら、こちらで過ごす分には大丈夫ですよね?」
「……ええ」
卓上カレンダーのその日は空白であり、特に何も予定は入っていない――というより、クリスマスなので大学関係者が予定を入れなかったというほうが正しい――ので、別に実家で過ごしても構わない。
義娘を溺愛していて、実の息子に敵愾心を剥きだしにしてる父親と顔を合わせるのは正直気が進まなかったが、ここで顔を出さなかったらそれこそ何を言われるか分からないので、実家に行った方が無難であろう。
「じゃあ、二十四日の夕方にはこちらに来て下さいね。りんちゃんと一緒にご馳走作ってますから」
「……分かりました」
受話器を机に置くと、再びパソコン画面に視線を戻すが、既に意識は先程の会話のほうに行ってしまっている。
「……」
どうせ集中できないなら、と一旦電源を落として、コーヒーでも淹れようと立ち上がる。サイフォンに粉を入れ、ポットに水を入れてアルコールランプに火をつける。
コーヒーが入るまでの間に、先程の義母とのやり取りを思い返してみる。
クリスマスには恋人と過ごす、というのが日本における一種の『常識』のようなものである事くらいは殺生丸も知ってはいた。といっても、そういったイベントの類には全く興味がないため、りんを連れて何処かに行く、という発想は全然浮かばなかったのだ。
(……何を言われるか想像がつくな……)
自分とは違ってこういったイベントに対してマメなところのある父親の事だ。まず間違いなく、高笑いして「甲斐性なし」だの何だのと言うに決まっている。
それを思うとため息が出るが、約束したからにはそれを破るわけにはいかない。義母はともかくとして、りんのがっかりする顔は見たくなかった。――案外、父はその方が喜ぶかもしれないが(恋女房と愛娘を独占できるのだから)、それも何だか癪ではある。
「……あと二週間、か」
アルコールランプに蓋を被せて火を消すと、サイフォンに上がってしまった湯を軽くかき回してから、コーヒーが下のポットに落ちるのを見つめる。
あの父の事だから、それこそ山程プレゼントを用意している事であろう。流石に、コートやそういった物に関しては、あちらの方が上質の物を贈れるのは言うまでもない。(基本的な資金力に差があるから、これは仕方が無い)娘の父親として、息子に対して少しでも上位に立とうという対抗心から、かなり品数を揃えているであろう事も容易く想像がつく。
ポットのコーヒーをカップに注いで口に運びながら、殺生丸は二週間後のクリスマスに意識を向けたのであった。
クリスマスイブの当日、犬塚家には奇妙な空気が漂っていた。
十六夜とりんの母子は朝から支度に忙しそうにしており、その夫であり父親である闘牙のほうも、ツリーの飾りつけとプレゼントの仕分けに余念が無かったのであるが、妻子が楽しそうなのに対して、こちらはかなりの仏頂面であった。
「……で、本当に殺生丸は来るのか」
「ええ、ちゃんと約束しましたから。ね? りんちゃん」
「うん。おととい、お兄さんに確認したら、ちゃんと来るって言ってたから大丈夫だよ」
「……」
愛娘の返事に、何が大丈夫なんだと、小声でぶつぶつという闘牙であった。
「……大体あんなのを呼ばなくても……」
恋女房と愛娘だけで充分だと言わんばかりの口調でぼやく闘牙の背に、幾分冷ややかな声がかけられたのはその直後であった。
「――実の息子を『あんなの』呼ばわりですか」
「……チャイムくらい鳴らせ」
「自分の家に入るのに、いちいちそんなものを鳴らすんですか」
ふん、と馬鹿にしたように――実際馬鹿にしているのであろうが――鼻を鳴らす息子をぎろりと睨みつける闘牙をよそに、殺生丸がやってきたのに気がついたりんが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「いらっしゃい、お兄さん」
「ああ」
出迎えたりんの頭を軽くぽんと叩いて、左手に提げていたポインセチアの鉢植えを差し出す。それを受け取ったりんがビニールから出して、ちょっと驚いたような顔になる。
「あ、ピンクのなんですね」
「花屋にあったから買ってきた。……普通のや、クレストとかは父上が買ってきてると思ってな」
そう言いながら、居間に置かれたクリスマスツリー風に飾り付けられたゴールデンクレスト(モミの木に似た杉の一種の観葉植物)の鉢植えをちらりと見やる。玄関にも、鮮やかな真紅のポインセチアの鉢植えが幾つも並んでいた。
「あら、いらっしゃい。殺生丸さん」
十六夜も台所から顔を出して義理の息子を出迎える。
「どうも」
実の父親とは眼に見えない火花を散らしつつも、義母とは穏やかに言葉を交わす殺生丸であった。
父子間の水面下での冷戦はともかくとして、時間は穏やかに過ぎ、それぞれのプレゼントを渡しあう頃にはすっかり夜も更けていた。
殺生丸の予想通り、りんの前には両親からのプレゼントが山積みになっており、少し申し訳無さそうな表情になりながらも、嬉しそうに礼を言って、プレゼントを差し出す愛娘の姿に目尻を下げている父親を見ながら、殺生丸はこっそりとため息をついた。
もちろん、妻である十六夜へのプレゼントも忘れるような男ではない。コートなどの衣類とおぼしき大き目の箱から、アクセサリーの類であろう小さめの箱まで一通り揃っている。
但し――当然であるかもしれないが――息子へのプレゼントは無しである。(別に欲しいとも思わなかったが)
両親にひとしきり感謝の気持を示して、それぞれにプレゼントを渡し終えると、りんが殺生丸に小さな箱を差し出した。
「はい、お兄さん」
照れくさそうに少しはにかみながら差し出してくるのを受け取ると、妻とにこやかに話しているはずの父親の視線が突き刺さってくるのを感じたが、元よりそんな事に構うような男でもないので平然としている。
「――開けても?」
箱は小さめだが、意外と重量がある。りんがこくりと頷くのを確認してから包装を解いていくと、箱に収まっていたのは薄い水色の硝子のペーパーウエイトであった。ちょうど握り拳くらいの大きさで、手造りのものらしくごつごつとしたデザインの物である。
「パソコンの資料とかだと、紙のままの物もあるから、栞よりこっちの方がいいかなって思って……」
特に反応を見せない殺生丸の顔を見上げながら、何処か不安そうに言ってくるりんの髪を空いた手で撫で、
「いや、助かる。……こういうのはなかなか手頃な物がないからな」
目元を和らげてそう言うと、りんの顔がぱあっと明るくなった。
更に父親の視線がびしばしと突き刺さってくるのを感じるが、それには構わずにポケットから小さなビロード張りの箱を出すと、りんの掌の上にぽんと置く。
「……え?」
どう見てもアクセサリー(それも小振りの物)の箱に、りんがびっくりしたように殺生丸の顔を見上げる。
「あ……あの、開けてもいいですか?」
「ああ」
りんの背後で闘牙が不穏な雰囲気を漂わせながら、ばきばきと指を鳴らしているのをちらりと見やって頷く。
りんが恐る恐ると言った様子で蓋を開けると、さっと両親が背後にやって来てその手元を覗き込んだ。
「……あら」
「……」
「……あ、綺麗……」
思わずといった感じでりんがぽつりと呟いてそれを取り出す。小さな楕円形のピンブローチが掌の上に載っていた。
「……えっと、これって……」
「カメオだ」
「? あれって貝じゃないんですか?」
「こういった瑪瑙とかに彫るものもある。……元々は、そちらの方が主流だったらしい」
「へえ、そうなんだ……」
りんが珍しそうにピンの部分を摘んでブローチを見つめる。藍色の土台の上にうっすらと白い花々が浮き彫りにされたデザインで、十代の少女がつけてもそれほど違和感のないようなものであった。
「ありがとうございます」
慎重に箱に戻すと、嬉しそうに顔を綻ばせて礼を言う。その後ろでは、少し拍子抜けしたような表情で闘牙と十六夜が顔を見合わせていた。
泊まっていったら、という義母の申し出を丁重に断って、殺生丸が帰る支度をしていると、相変わらず苦虫を(まとめて百匹くらい)噛み潰したような仏頂面で、父親が声をかけてきた。
「何ですか」
「……今日はクリスマスイブだな」
「二十四日だから、そうですね」
「……」
愛想の欠片もない息子の返事に、額に青筋を浮かび上がらせながらも、気分を落ち着かせようとするかのように、闘牙はひとつ大きく息を吐いた。
「……父親がせっかく、クリスマス精神と言うものを見せようと思ってるときに、そういう可愛げのない態度を取るのは止めろ」
「……?」
玄関でコートを羽織りかけていた殺生丸の動きが止まる。振り返ると、おろしたてと思しきコートを着て、ミニボストンを抱えたりんが、真っ赤な顔で母親に背を押されているところだった。
「……どういう風の吹き回しです」
息子の言葉に、闘牙がひくりと頬を引きつらせる。何かを堪えるかのように、何度か右手を握ったり開いたりするのを繰り返すと、再び深呼吸をしてから口を開いた。
「……十六夜に感謝しろ」
それだけを言うと、息子に背を向けて愛娘の肩に両手を置く。
「いいか、りん。ほんの少しでも嫌な事があったら、すぐに、お父さんに連絡するんだぞ。……真夜中だろうが、明け方だろうが、すぐに駆けつけてやるからな」
これ以上ないほどに据わった眼でそう言ってくる義父に、赤い顔のままで曖昧に頷くりんの肩を、十六夜が軽く引いて夫から引き離す。
「じゃあ、お願いしますね。殺生丸さん」
そう言って義理の息子ににっこりと笑いかけてくる。
「……どうも」
流石に殺生丸も曖昧な表情でそう答える。りんはというと、耳まで真っ赤にして殺生丸のコートの左袖を掴んでいた。
「――では、ありがたく受け取らせていただきます」
とはいえ、この状況を逃すつもりなど毛頭ないので、さっさと頭を切り替えてりんの肩に腕を回す。
「メリークリスマス。――良い聖夜をね、お二人さん」
「メリークリスマス」
後ろで闘牙が「の」の字を書きながらいじけているのをよそに、義理の親子はにこやかにクリスマスの挨拶を交わしたのであった。
≪終≫
十二月である。
街中や個人の住宅にもイルミネーションが輝き、各種商業施設は歳末商戦にそなえて気炎を上げ、世の親達が子供へのプレゼントに悩み、独り者がクリスマスまでに恋人を捕まえようと焦る時期の到来である。
学生にとっては試験や面接の時期であり、社会人にとっても仕事の締め切りが厳しくなる厄介な月でもある。
そして、イベントに拘る人間と、そういったものに全く拘らない人間との明暗がくっきりと分かれる月でもあった。
「……クリスマスの予定?」
コードレスの受話器を肩に挟んだまま、パソコンの画面を見ていた殺生丸が怪訝そうな表情になる。
「ええ。今年のクリスマスは、ちょうど週末でしょ。だから、良かったらこちらで一緒に過ごしません?」
電話の相手は十六夜。殺生丸にとっては、父親の再婚相手で、義母にあたる女性である。
「あの人も休みで家にいるし、りんちゃんも冬休みに入ってるから、みんな揃うし」
「……」
その言葉に、ちらりと卓上カレンダーに眼を走らせる。確かに、二十四日は土曜であり、現在、修士課程一年である殺生丸もその時期には冬休みに入っている。
「――あ、それとも、りんちゃん連れて何処かに行く計画でも立ててました? ……だったら、無理にとは言いませんけど」
「……は?」
彼の沈黙をどう取ったのか、そう言ってくる十六夜に、殺生丸が小さく声を洩らした。既にパソコン画面からは完全に意識が逸れている。
目下の所、この義兄妹は一応婚約関係にある。一応、というのは、殺生丸の父親である闘牙が「りんにも他の男を好きになる権利がある!」と言い張って、完全公認にする事を渋ったためであった。(……そもそもの馴れ初めを考えたら、ある意味当然の反応であるかもしれない)
馴れ初めに大いに問題はあったものの、とりあえず今の二人が上手くいっている事は確かなので、りんの母親――正確には叔母だが――である十六夜の方は、二人に対して好意的である。
「……いえ、特にそういった予定はありませんが……」
おっとりしていても芯の強い所のあるこの義母については、殺生丸も一目置いていたので、応対も自然と丁寧になる。
「まあ、折角のクリスマスなのに、何も考えてなかったの?」
「……ええ」
実家で家族揃って一緒に過ごそう、という最初の申し出とは矛盾しているのではないだろうか、と思いつつそう答えると、呆れたような雰囲気が受話器の向こうから伝わってきた。
「……でも、それでしたら、こちらで過ごす分には大丈夫ですよね?」
「……ええ」
卓上カレンダーのその日は空白であり、特に何も予定は入っていない――というより、クリスマスなので大学関係者が予定を入れなかったというほうが正しい――ので、別に実家で過ごしても構わない。
義娘を溺愛していて、実の息子に敵愾心を剥きだしにしてる父親と顔を合わせるのは正直気が進まなかったが、ここで顔を出さなかったらそれこそ何を言われるか分からないので、実家に行った方が無難であろう。
「じゃあ、二十四日の夕方にはこちらに来て下さいね。りんちゃんと一緒にご馳走作ってますから」
「……分かりました」
受話器を机に置くと、再びパソコン画面に視線を戻すが、既に意識は先程の会話のほうに行ってしまっている。
「……」
どうせ集中できないなら、と一旦電源を落として、コーヒーでも淹れようと立ち上がる。サイフォンに粉を入れ、ポットに水を入れてアルコールランプに火をつける。
コーヒーが入るまでの間に、先程の義母とのやり取りを思い返してみる。
クリスマスには恋人と過ごす、というのが日本における一種の『常識』のようなものである事くらいは殺生丸も知ってはいた。といっても、そういったイベントの類には全く興味がないため、りんを連れて何処かに行く、という発想は全然浮かばなかったのだ。
(……何を言われるか想像がつくな……)
自分とは違ってこういったイベントに対してマメなところのある父親の事だ。まず間違いなく、高笑いして「甲斐性なし」だの何だのと言うに決まっている。
それを思うとため息が出るが、約束したからにはそれを破るわけにはいかない。義母はともかくとして、りんのがっかりする顔は見たくなかった。――案外、父はその方が喜ぶかもしれないが(恋女房と愛娘を独占できるのだから)、それも何だか癪ではある。
「……あと二週間、か」
アルコールランプに蓋を被せて火を消すと、サイフォンに上がってしまった湯を軽くかき回してから、コーヒーが下のポットに落ちるのを見つめる。
あの父の事だから、それこそ山程プレゼントを用意している事であろう。流石に、コートやそういった物に関しては、あちらの方が上質の物を贈れるのは言うまでもない。(基本的な資金力に差があるから、これは仕方が無い)娘の父親として、息子に対して少しでも上位に立とうという対抗心から、かなり品数を揃えているであろう事も容易く想像がつく。
ポットのコーヒーをカップに注いで口に運びながら、殺生丸は二週間後のクリスマスに意識を向けたのであった。
クリスマスイブの当日、犬塚家には奇妙な空気が漂っていた。
十六夜とりんの母子は朝から支度に忙しそうにしており、その夫であり父親である闘牙のほうも、ツリーの飾りつけとプレゼントの仕分けに余念が無かったのであるが、妻子が楽しそうなのに対して、こちらはかなりの仏頂面であった。
「……で、本当に殺生丸は来るのか」
「ええ、ちゃんと約束しましたから。ね? りんちゃん」
「うん。おととい、お兄さんに確認したら、ちゃんと来るって言ってたから大丈夫だよ」
「……」
愛娘の返事に、何が大丈夫なんだと、小声でぶつぶつという闘牙であった。
「……大体あんなのを呼ばなくても……」
恋女房と愛娘だけで充分だと言わんばかりの口調でぼやく闘牙の背に、幾分冷ややかな声がかけられたのはその直後であった。
「――実の息子を『あんなの』呼ばわりですか」
「……チャイムくらい鳴らせ」
「自分の家に入るのに、いちいちそんなものを鳴らすんですか」
ふん、と馬鹿にしたように――実際馬鹿にしているのであろうが――鼻を鳴らす息子をぎろりと睨みつける闘牙をよそに、殺生丸がやってきたのに気がついたりんが嬉しそうに駆け寄ってくる。
「いらっしゃい、お兄さん」
「ああ」
出迎えたりんの頭を軽くぽんと叩いて、左手に提げていたポインセチアの鉢植えを差し出す。それを受け取ったりんがビニールから出して、ちょっと驚いたような顔になる。
「あ、ピンクのなんですね」
「花屋にあったから買ってきた。……普通のや、クレストとかは父上が買ってきてると思ってな」
そう言いながら、居間に置かれたクリスマスツリー風に飾り付けられたゴールデンクレスト(モミの木に似た杉の一種の観葉植物)の鉢植えをちらりと見やる。玄関にも、鮮やかな真紅のポインセチアの鉢植えが幾つも並んでいた。
「あら、いらっしゃい。殺生丸さん」
十六夜も台所から顔を出して義理の息子を出迎える。
「どうも」
実の父親とは眼に見えない火花を散らしつつも、義母とは穏やかに言葉を交わす殺生丸であった。
父子間の水面下での冷戦はともかくとして、時間は穏やかに過ぎ、それぞれのプレゼントを渡しあう頃にはすっかり夜も更けていた。
殺生丸の予想通り、りんの前には両親からのプレゼントが山積みになっており、少し申し訳無さそうな表情になりながらも、嬉しそうに礼を言って、プレゼントを差し出す愛娘の姿に目尻を下げている父親を見ながら、殺生丸はこっそりとため息をついた。
もちろん、妻である十六夜へのプレゼントも忘れるような男ではない。コートなどの衣類とおぼしき大き目の箱から、アクセサリーの類であろう小さめの箱まで一通り揃っている。
但し――当然であるかもしれないが――息子へのプレゼントは無しである。(別に欲しいとも思わなかったが)
両親にひとしきり感謝の気持を示して、それぞれにプレゼントを渡し終えると、りんが殺生丸に小さな箱を差し出した。
「はい、お兄さん」
照れくさそうに少しはにかみながら差し出してくるのを受け取ると、妻とにこやかに話しているはずの父親の視線が突き刺さってくるのを感じたが、元よりそんな事に構うような男でもないので平然としている。
「――開けても?」
箱は小さめだが、意外と重量がある。りんがこくりと頷くのを確認してから包装を解いていくと、箱に収まっていたのは薄い水色の硝子のペーパーウエイトであった。ちょうど握り拳くらいの大きさで、手造りのものらしくごつごつとしたデザインの物である。
「パソコンの資料とかだと、紙のままの物もあるから、栞よりこっちの方がいいかなって思って……」
特に反応を見せない殺生丸の顔を見上げながら、何処か不安そうに言ってくるりんの髪を空いた手で撫で、
「いや、助かる。……こういうのはなかなか手頃な物がないからな」
目元を和らげてそう言うと、りんの顔がぱあっと明るくなった。
更に父親の視線がびしばしと突き刺さってくるのを感じるが、それには構わずにポケットから小さなビロード張りの箱を出すと、りんの掌の上にぽんと置く。
「……え?」
どう見てもアクセサリー(それも小振りの物)の箱に、りんがびっくりしたように殺生丸の顔を見上げる。
「あ……あの、開けてもいいですか?」
「ああ」
りんの背後で闘牙が不穏な雰囲気を漂わせながら、ばきばきと指を鳴らしているのをちらりと見やって頷く。
りんが恐る恐ると言った様子で蓋を開けると、さっと両親が背後にやって来てその手元を覗き込んだ。
「……あら」
「……」
「……あ、綺麗……」
思わずといった感じでりんがぽつりと呟いてそれを取り出す。小さな楕円形のピンブローチが掌の上に載っていた。
「……えっと、これって……」
「カメオだ」
「? あれって貝じゃないんですか?」
「こういった瑪瑙とかに彫るものもある。……元々は、そちらの方が主流だったらしい」
「へえ、そうなんだ……」
りんが珍しそうにピンの部分を摘んでブローチを見つめる。藍色の土台の上にうっすらと白い花々が浮き彫りにされたデザインで、十代の少女がつけてもそれほど違和感のないようなものであった。
「ありがとうございます」
慎重に箱に戻すと、嬉しそうに顔を綻ばせて礼を言う。その後ろでは、少し拍子抜けしたような表情で闘牙と十六夜が顔を見合わせていた。
泊まっていったら、という義母の申し出を丁重に断って、殺生丸が帰る支度をしていると、相変わらず苦虫を(まとめて百匹くらい)噛み潰したような仏頂面で、父親が声をかけてきた。
「何ですか」
「……今日はクリスマスイブだな」
「二十四日だから、そうですね」
「……」
愛想の欠片もない息子の返事に、額に青筋を浮かび上がらせながらも、気分を落ち着かせようとするかのように、闘牙はひとつ大きく息を吐いた。
「……父親がせっかく、クリスマス精神と言うものを見せようと思ってるときに、そういう可愛げのない態度を取るのは止めろ」
「……?」
玄関でコートを羽織りかけていた殺生丸の動きが止まる。振り返ると、おろしたてと思しきコートを着て、ミニボストンを抱えたりんが、真っ赤な顔で母親に背を押されているところだった。
「……どういう風の吹き回しです」
息子の言葉に、闘牙がひくりと頬を引きつらせる。何かを堪えるかのように、何度か右手を握ったり開いたりするのを繰り返すと、再び深呼吸をしてから口を開いた。
「……十六夜に感謝しろ」
それだけを言うと、息子に背を向けて愛娘の肩に両手を置く。
「いいか、りん。ほんの少しでも嫌な事があったら、すぐに、お父さんに連絡するんだぞ。……真夜中だろうが、明け方だろうが、すぐに駆けつけてやるからな」
これ以上ないほどに据わった眼でそう言ってくる義父に、赤い顔のままで曖昧に頷くりんの肩を、十六夜が軽く引いて夫から引き離す。
「じゃあ、お願いしますね。殺生丸さん」
そう言って義理の息子ににっこりと笑いかけてくる。
「……どうも」
流石に殺生丸も曖昧な表情でそう答える。りんはというと、耳まで真っ赤にして殺生丸のコートの左袖を掴んでいた。
「――では、ありがたく受け取らせていただきます」
とはいえ、この状況を逃すつもりなど毛頭ないので、さっさと頭を切り替えてりんの肩に腕を回す。
「メリークリスマス。――良い聖夜をね、お二人さん」
「メリークリスマス」
後ろで闘牙が「の」の字を書きながらいじけているのをよそに、義理の親子はにこやかにクリスマスの挨拶を交わしたのであった。
≪終≫
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2005/12/25 |
- パラレル(義兄妹) |
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