お題
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- お題2のオマケです。(09/17)
- お題2作目です(12/30)
- まずは原点から(11/05)
お題2のオマケです。
ラストをもう少し書き足すか、書き足さないかでだらだらと放置してました。結局、あんまり長くしてもテンポが悪いのでさくっと切ってしまいましたが。(苦笑)
お題2作目のオマケです。記事を開いてお読みください。
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お題2作目のオマケです。記事を開いてお読みください。
オマケ(お題2の付け足し)
「うわぁ……このお池、湯気が出てる。これ、お湯なの? それに、お水が白いよ?」
「馬鹿もん、これは池ではなくて、温泉じゃ!」
「おんせん?」
「温泉も知らんのか?」
「うん」
あっさりと認めて頷く少女に、邪見はがっくりと肩を落とした。
そんな彼とは対照的に、少女の方は好奇心に眼を輝かせて岩に囲まれた天然の露天風呂を覗き込んでいる。その様子を見て、邪見は更に疲れたようにため息を一つついた。
異母弟との戦いのさなかにはぐれてしまった主を、ここ数日間探し回って、漸く探し当てたのがつい先刻の事である。(ある程度予想はしていたが)満身創痍の主を見て、大いに焦った邪見であったが、いつもと変わらずに平然とした態度であったのにほっと胸を撫で下ろしたのであった。それが例え痩せ我慢であったとしても、少なくとも平静を装うだけの余裕があると言う事だからだ。
しかし、その後に続いた一連の出来事は、長年殺生丸に仕えてきた邪見をして、主の正気を疑いたくなるような事の連続であった。
邪見はため息をつきながら、恐る恐る手を伸ばして温泉に指先を浸している少女を見やった。
――殺生丸さまも何を考えて、こんな小娘を連れてこられたのか……
殺生丸が天生牙の癒しの力をもってして人間の子供を生き返らせた事には、それこそ我が目を疑うほどに驚いたが、すぐに少女を置いて立ち去ろうとした主の姿を見て、一安心したのも束の間の事であった。
一体何があったのかは分からないが、いきなり踵を返したかと思うと、来た道を真っ直ぐに引き返したのだ。
ちなみに邪見が殺生丸に追いつくのが遅れたのは、ちょうどその時に主の騎竜である双頭竜の阿吽がやってきたからだった。主に似たのか気紛れな所のあるこの竜を殺生丸も好きにさせていたのだが(彼自身が竜に勝るとも劣らない飛行能力を持っている事もあるし、呼べばすぐに来るという事もあった)、この度の主の異常を彼(彼ら)も察したらしく、呼ばれる前にやって来たのだ。
久しぶりに合流した双頭竜の手綱を取って主の方へ向かったら、主の傍らには薄汚れた人間の小娘の姿があった。その光景に眼を丸くする邪見には構わずに、一緒にやってきた双頭竜の姿を認めると、ちょうどいいとばかりに小娘の身体を無造作に掬い上げて、その鞍に乗せたのだ。
あまりの事に何も言えずに口をぱくぱくさせている邪見と、やはりぎょっとしたように二つの首をそれぞれ主といきなり背に乗せられた少女に向け、困惑している双頭竜には構わずに、いつもと全く変わらない口調で「行くぞ」とだけ告げて、彼らの主はすたすたと歩き始めたのであった。
いきなり荷物よろしく鞍に乗せられた少女も驚いたらしく、慌てて鞍壺の辺りをしっかりと掴んでずり落ちないように身体を固定する。
それを確認すると、阿吽もまた――かなり混乱していたのは間違いないだろうが――主の後を追い、邪見もまたそれに続いたのであった。
そこまで思い出して、邪見はまたもや深いため息をついた。
「……ま。――さま……」
大体、この少女にしても、何を好き好んで妖怪の後を追うようなことをしているのか。
そんな事を考えていると、ため息が尽きない邪見であった。
「……――邪見さま、ってばあっ!」
「うぉ!」
いきなり耳元で大きい声を出され、邪見が飛び上がると少女がその様子を不思議そうに見下ろしている。
「な、なんじゃ、いきなり大声を出して」
「いきなりじゃないもん。りん、何度も呼んだんだよ」
そう言うと、少女――りんは、温泉と邪見の顔を交互に見つめて質問してきた。
「ねえ、ここに何しに来たの?」
「……何をしにって……身体を洗うために決まっとろうが」
温泉に来て、他に何をすると言うのだ。
そう言う邪見の態度に、りんは不思議そうに小首を傾げた。
「ここのお湯で身体を洗うの?」
「そうじゃ」
「……?」
それでもりんはまだ腑に落ちない風であった。
そもそもこの時代、身体を洗うために湯を沸かすという習慣は一般的ではなかった。これは何も庶民に限った事ではなく、貴族階級でもそうであったのだ。上流階級で着物に香をたきしめるというのを行うのも、突き詰めて言うと体臭を誤魔化すためのものであった。
温泉による湯治そのものはかなり古くから行われていたが、そういった知識と言うのは一部の上流階級(あるいは地元の者)に限られており、普通の庶民が知る由もないことだった。
温泉の効能も、お湯で身体を洗うという事も知らないりんが戸惑っているのには構わずに、邪見は懐から手拭いを取り出してりんに渡した。
「ほれ、垢すりにはこれを使え。いいか、汚れをきちんと落とすまで、出てくるなよ」
「……はあい」
邪見の言っている事が全部理解できた訳ではなかったが、とにかくこの「おんせん」とやらに入って身体を洗えばいいのだろうと思って、おとなしく布を受け取って岩陰の方に行って着物を脱ぎ始める。
その様子を視界の隅で確認しながら、邪見はやれやれとため息をついた。りんが温泉に入っている間に、あのぼろきれ同然の着物を洗って、少しはましにしなければいけないだろう。鼻の利く主の側に、あんな汚れたものを置いておく訳には行くまい。
りんが温泉の中に入ってから、邪見は着物を摘み上げて彼女に声をかけた。
「わしはちょっとここを離れるが、きちんと身体は洗うんじゃぞ」
「はあい」
ぱしゃぱしゃと水が撥ねる音と共に、返事が返ってくる。
手近な小川でざばざばと適当に着物を洗うと、邪見は一度それを広げてみた。元が元だからそれほど綺麗にはならないし、血の染みなどはそう簡単に落ちるものではないが、さっきよりはましだと思って絞りにかかる。
そこで、邪見はふと違和感を感じた。
少女の身体に対して、着物が小さすぎるような気がしたのだ。
再び着物を広げてあらためて見直してみると、袖や裾に継ぎが当たっている様子がない。繕った痕跡はそこかしこにあるが、それも拙(つたな)いもので、まるで子供の手によるようなものであった。
「……?」
いかに貧しくとも、普通は子供の成長に合わせて、着物を仕立て直したり、(貧しくてそれすらも出来ない場合であっても)袖や裾に布を継いだりするものだが、この着物にはそういった形跡が全くないのだ。もし仮に着物に布を継ぐ事すらも出来なかったのだとしても、綻びや何かを繕うのは親がする筈であるが、これはどう見ても大人の手によるものではない。
「……」
あの少女が自分たちの後を着いて来たのは、狼どもによって村人達――身寄りの者――が食い殺されてしまったためだと思っていたのだが、もしかしたらそのずっと前から彼女には身寄りの者などいなかったのではないだろうか。
辛うじて身を寄せていた村が狼どもによって壊滅させられ、天生牙によっていきなりこの世に引き戻された幼子が、命を救ってくれた相手の後を――それが妖怪であっても――思わず追ってしまったのは無理はないかもしれない。
そう考えると、思わず同情にも似た感情がわきあがるが、それを打ち消すようにぶんぶんと首を振る。
妖怪である自分が、人間の子供に同情する必要など無いのだ。
しかし、それなら何故主はあの少女を連れてきたのだろうか――と、改めて着物を絞りながらふと考え込んでしまう邪見であった。
りんは物珍しそうに白濁した湯をぱしゃぱしゃと撥ね上げていた。
昼間はともかく、夜になるとまだ冷え込む事のある時期であるため、(少し熱かったのだが)湯に浸かっているのは気持が良かった。渡された布で腕を擦ってみると、湯で温まって柔らかくなった肌から垢が糸くずのようによれてぽろぽろと落ちる。心なしか、それを落とした後の肌がより滑らかになっているような気がして、りんは身体のあちこちを布で擦ってみた。その度に垢がぽろぽろと落ちるのが面白くて、強く擦っていると、かえってひりひりしてきたので、適当な所で止める。
「……このくらい、落としたらいいよね」
ぽつりとそう呟いて、ふと気がついたように自分の喉に手をやってみる。
指先に触れる肌の感触は滑らかで、傷一つない。
身体のあちこちを改めて見直してみるが、元々あった古い傷跡などはともかくとして、直前まで負っていた打ち身や傷の痕跡は全く無かった。先程転んで打ち付けた膝や手のひらは少しひりひりとしたが、それほど気にはならなかった。
腕を伸ばしてみるが、青痣や打ち身の痕はどこにも見当たらない。
「……りん、死んだはずなんだよね……」
不意に――熱い湯に浸かっているにもかかわらず――冷たいものが背筋を伝いおりた。りんはぶるりと身体を震わせると、身体を丸めて顎まで湯に浸かりなおした。
視界いっぱいに広がった狼たちの真っ赤な口と鋭い牙。それがりんの覚えている最後の光景になるはずだったのだ。
何故自分が助かったのかという事は、今のりんにはまだ良く解ってはいなかったが、あの白銀の妖怪が関わっていることだけは漠然と察していた。
そういえば、邪見が何やら言っていたような覚えもある。
後で(殺生丸には訊いても無駄だろうから)邪見に訊いてみようと思いながら、りんは濡らした布で顔を拭うと、そろそろ上がろうと立ち上がりかけた。
だが――
(……あれ?)
頭の芯がぐらぐらするような奇妙な感覚がする。目の前が――湯気のせいだけでなく――真っ白になっていった。
温泉の中から聞こえてきた派手な水音に、阿吽は片方の首を上げた。
今、温泉の中には人間の子供が入っているはずである。
もう片方の首を擡げて邪見が向かった方を見やるが、まだ帰ってくる様子は無い。ふらりと別の方向へ行った主がこちらに来る気配もまだないことを確認すると、双頭竜はようやく立ち上がって温泉のほうに近づいていった。
邪見同様、彼らもまた主の行動に首を傾げていたのであるが、(まず間違いなく雑用の悉くを押し付けられるであろう)邪見とは違って、彼らはある意味呑気に構えていた。
殺生丸が何を考えて人間の子供などを連れてきたのかは分からないが、主がそうしたいのであれば彼らは黙って従うだけだった。――どの道、誰が何と言おうが、殺生丸は己のしたいようにしかしないのだから。
ひょい、と首を伸ばして天然の岩風呂を覗き込むと、阿吽は少し驚いたように四つの眼を瞬かせた。
人間の子供が、ぐったりとした様子で温泉の中に浮かんでいる。
阿吽は慌てて身を乗り出すと、二つの首を伸ばして子供の両腕を傷をつけないようにそっと咥えて湯の中から引き上げた。
柔らかな草の上に子供の身体を下ろすと、子供は小さく何度か咳き込んで少し水を吐き出した。
小さな痩せこけた身体が茹で上がったように真っ赤になっている。どうやら湯あたりしたらしい。
そこまでは分かるのだが、これからどうしたものだろうかと、阿吽は双の首を傾げた。
今は湯あたりで火照っていても、このままにしておいたら急激に体温が失われてしまうことくらいは彼らにも分かる。何らかの方法でそれを防がないと、今度はそのせいで身体が弱る事は間違いなかった。
しかし、自分たちの身体を覆うのは固く冷たい鱗であり、主のようなふかふかした毛皮ではないのだ。
主を呼びに行った方がいいだろうかと首を傾げていると、当の本人がやってくる気配がした。
少女の気配の変化を察して、殺生丸は下僕と騎竜を残しておいた場所に足を向けた。
湯あたりでもしたらしく、真っ赤になってぐったりしている少女の傍らに、騎竜が困惑したように佇んでいる。
下僕の姿はなかった。少女の着物やらが無いところから察するに、どうやら着物を洗いにでも行ったらしい。
片方の頭でぐったりとしている少女を見ながら、阿吽がもう片方の頭を上げて殺生丸の方を見つめてくる。
殺生丸もあらためて少女を見下ろしてみた。
湯で温められて赤くなった肌にいくつも浮かぶ傷痕に、僅かにその金色の眼が細められる。日常生活の中でつくような傷ではなく、明らかに他者による暴行の痕跡であると判るそれは、少女の小さな身体のあちこちを埋め尽くすように浮かび上がっていた。
「……」
殺生丸は無言のまま少女の傍らに腰を下ろし、己の毛皮の端が少女の身体を覆うようにしてやった。本能的なものなのか、少女が身体を丸めて毛皮の中により深く潜り込もうとしてくるのを意識の端に捉えながら、殺生丸はゆっくりと近づいてくる下僕の匂いを嗅ぎ取っていた。
人頭杖に少女の着物を括りつけ、空いた手に焚きつけにするつもりの粗朶を抱えた邪見が戻ってきた。主の様子を見て元より大きな眼を更に見開いたものの、特には何も言わずに――あるいはただ単に絶句していただけかもしれないが――慌てて焚き火の準備を始める。
「す、すぐに着物を乾かしますので……」
主の毛皮の端から少女の手足がはみ出ているのを見れば、状況は大体予想がついた。
大方、湯あたりででもしたため、体温の低下を防ぐためにやむを得ず毛皮で覆ってやっているのであろう。人間嫌いの――加えて、鼻の利く――主がそこまでするのは不可解極まりないのだが(そんな事をすれば、まず間違いなく人間の臭いが移るのだから)、あえてそこには思考を向けないようにしておく。
集めてきた粗朶に人頭杖で火をつけると、着物を乾かそうと大急ぎで広げるが、その動きが途中で止まった。
「……あ……」
着物の身ごろの部分が何箇所が大きく裂けている。
そういえば、絞った時に何やら妙な手ごたえを感じたような気がしたが……。
「…………」
背後の気配が何だか今まで感じたことがないくらい不穏さを増しているように感じられるのは、果たして自分の気のせいであるのだろうか。振り向いて、それを確認するだけの勇気は邪見にはなかった。
「……あ、あたらしい、物を、調達してまいります、ので……」
完全に裏返った声でそう言いながら、金縛りにでもあったかのように動こうとしない四肢を何とか動かして、この場から逃れようとした邪見であったが、次の瞬間にそれは別の形で叶えられる事となる。
すっかり馴染んだ――悲しいかな――主の強烈な蹴りが見事に脇腹に入って、彼の身体は夜空に綺麗な放物線を描いて飛んで行ったのであった。
……因みに、これが邪見がりん絡みでお星様になる羽目になった、記念すべき(?)第一回目の事となるのだが、この時はまだ誰もそれを知る由もなかったのである。
「……ふん」
下僕を蹴り飛ばした後、殺生丸は面白くも無さそうに小さく鼻を鳴らした。
END
2007.9.17 脱稿
「うわぁ……このお池、湯気が出てる。これ、お湯なの? それに、お水が白いよ?」
「馬鹿もん、これは池ではなくて、温泉じゃ!」
「おんせん?」
「温泉も知らんのか?」
「うん」
あっさりと認めて頷く少女に、邪見はがっくりと肩を落とした。
そんな彼とは対照的に、少女の方は好奇心に眼を輝かせて岩に囲まれた天然の露天風呂を覗き込んでいる。その様子を見て、邪見は更に疲れたようにため息を一つついた。
異母弟との戦いのさなかにはぐれてしまった主を、ここ数日間探し回って、漸く探し当てたのがつい先刻の事である。(ある程度予想はしていたが)満身創痍の主を見て、大いに焦った邪見であったが、いつもと変わらずに平然とした態度であったのにほっと胸を撫で下ろしたのであった。それが例え痩せ我慢であったとしても、少なくとも平静を装うだけの余裕があると言う事だからだ。
しかし、その後に続いた一連の出来事は、長年殺生丸に仕えてきた邪見をして、主の正気を疑いたくなるような事の連続であった。
邪見はため息をつきながら、恐る恐る手を伸ばして温泉に指先を浸している少女を見やった。
――殺生丸さまも何を考えて、こんな小娘を連れてこられたのか……
殺生丸が天生牙の癒しの力をもってして人間の子供を生き返らせた事には、それこそ我が目を疑うほどに驚いたが、すぐに少女を置いて立ち去ろうとした主の姿を見て、一安心したのも束の間の事であった。
一体何があったのかは分からないが、いきなり踵を返したかと思うと、来た道を真っ直ぐに引き返したのだ。
ちなみに邪見が殺生丸に追いつくのが遅れたのは、ちょうどその時に主の騎竜である双頭竜の阿吽がやってきたからだった。主に似たのか気紛れな所のあるこの竜を殺生丸も好きにさせていたのだが(彼自身が竜に勝るとも劣らない飛行能力を持っている事もあるし、呼べばすぐに来るという事もあった)、この度の主の異常を彼(彼ら)も察したらしく、呼ばれる前にやって来たのだ。
久しぶりに合流した双頭竜の手綱を取って主の方へ向かったら、主の傍らには薄汚れた人間の小娘の姿があった。その光景に眼を丸くする邪見には構わずに、一緒にやってきた双頭竜の姿を認めると、ちょうどいいとばかりに小娘の身体を無造作に掬い上げて、その鞍に乗せたのだ。
あまりの事に何も言えずに口をぱくぱくさせている邪見と、やはりぎょっとしたように二つの首をそれぞれ主といきなり背に乗せられた少女に向け、困惑している双頭竜には構わずに、いつもと全く変わらない口調で「行くぞ」とだけ告げて、彼らの主はすたすたと歩き始めたのであった。
いきなり荷物よろしく鞍に乗せられた少女も驚いたらしく、慌てて鞍壺の辺りをしっかりと掴んでずり落ちないように身体を固定する。
それを確認すると、阿吽もまた――かなり混乱していたのは間違いないだろうが――主の後を追い、邪見もまたそれに続いたのであった。
そこまで思い出して、邪見はまたもや深いため息をついた。
「……ま。――さま……」
大体、この少女にしても、何を好き好んで妖怪の後を追うようなことをしているのか。
そんな事を考えていると、ため息が尽きない邪見であった。
「……――邪見さま、ってばあっ!」
「うぉ!」
いきなり耳元で大きい声を出され、邪見が飛び上がると少女がその様子を不思議そうに見下ろしている。
「な、なんじゃ、いきなり大声を出して」
「いきなりじゃないもん。りん、何度も呼んだんだよ」
そう言うと、少女――りんは、温泉と邪見の顔を交互に見つめて質問してきた。
「ねえ、ここに何しに来たの?」
「……何をしにって……身体を洗うために決まっとろうが」
温泉に来て、他に何をすると言うのだ。
そう言う邪見の態度に、りんは不思議そうに小首を傾げた。
「ここのお湯で身体を洗うの?」
「そうじゃ」
「……?」
それでもりんはまだ腑に落ちない風であった。
そもそもこの時代、身体を洗うために湯を沸かすという習慣は一般的ではなかった。これは何も庶民に限った事ではなく、貴族階級でもそうであったのだ。上流階級で着物に香をたきしめるというのを行うのも、突き詰めて言うと体臭を誤魔化すためのものであった。
温泉による湯治そのものはかなり古くから行われていたが、そういった知識と言うのは一部の上流階級(あるいは地元の者)に限られており、普通の庶民が知る由もないことだった。
温泉の効能も、お湯で身体を洗うという事も知らないりんが戸惑っているのには構わずに、邪見は懐から手拭いを取り出してりんに渡した。
「ほれ、垢すりにはこれを使え。いいか、汚れをきちんと落とすまで、出てくるなよ」
「……はあい」
邪見の言っている事が全部理解できた訳ではなかったが、とにかくこの「おんせん」とやらに入って身体を洗えばいいのだろうと思って、おとなしく布を受け取って岩陰の方に行って着物を脱ぎ始める。
その様子を視界の隅で確認しながら、邪見はやれやれとため息をついた。りんが温泉に入っている間に、あのぼろきれ同然の着物を洗って、少しはましにしなければいけないだろう。鼻の利く主の側に、あんな汚れたものを置いておく訳には行くまい。
りんが温泉の中に入ってから、邪見は着物を摘み上げて彼女に声をかけた。
「わしはちょっとここを離れるが、きちんと身体は洗うんじゃぞ」
「はあい」
ぱしゃぱしゃと水が撥ねる音と共に、返事が返ってくる。
手近な小川でざばざばと適当に着物を洗うと、邪見は一度それを広げてみた。元が元だからそれほど綺麗にはならないし、血の染みなどはそう簡単に落ちるものではないが、さっきよりはましだと思って絞りにかかる。
そこで、邪見はふと違和感を感じた。
少女の身体に対して、着物が小さすぎるような気がしたのだ。
再び着物を広げてあらためて見直してみると、袖や裾に継ぎが当たっている様子がない。繕った痕跡はそこかしこにあるが、それも拙(つたな)いもので、まるで子供の手によるようなものであった。
「……?」
いかに貧しくとも、普通は子供の成長に合わせて、着物を仕立て直したり、(貧しくてそれすらも出来ない場合であっても)袖や裾に布を継いだりするものだが、この着物にはそういった形跡が全くないのだ。もし仮に着物に布を継ぐ事すらも出来なかったのだとしても、綻びや何かを繕うのは親がする筈であるが、これはどう見ても大人の手によるものではない。
「……」
あの少女が自分たちの後を着いて来たのは、狼どもによって村人達――身寄りの者――が食い殺されてしまったためだと思っていたのだが、もしかしたらそのずっと前から彼女には身寄りの者などいなかったのではないだろうか。
辛うじて身を寄せていた村が狼どもによって壊滅させられ、天生牙によっていきなりこの世に引き戻された幼子が、命を救ってくれた相手の後を――それが妖怪であっても――思わず追ってしまったのは無理はないかもしれない。
そう考えると、思わず同情にも似た感情がわきあがるが、それを打ち消すようにぶんぶんと首を振る。
妖怪である自分が、人間の子供に同情する必要など無いのだ。
しかし、それなら何故主はあの少女を連れてきたのだろうか――と、改めて着物を絞りながらふと考え込んでしまう邪見であった。
りんは物珍しそうに白濁した湯をぱしゃぱしゃと撥ね上げていた。
昼間はともかく、夜になるとまだ冷え込む事のある時期であるため、(少し熱かったのだが)湯に浸かっているのは気持が良かった。渡された布で腕を擦ってみると、湯で温まって柔らかくなった肌から垢が糸くずのようによれてぽろぽろと落ちる。心なしか、それを落とした後の肌がより滑らかになっているような気がして、りんは身体のあちこちを布で擦ってみた。その度に垢がぽろぽろと落ちるのが面白くて、強く擦っていると、かえってひりひりしてきたので、適当な所で止める。
「……このくらい、落としたらいいよね」
ぽつりとそう呟いて、ふと気がついたように自分の喉に手をやってみる。
指先に触れる肌の感触は滑らかで、傷一つない。
身体のあちこちを改めて見直してみるが、元々あった古い傷跡などはともかくとして、直前まで負っていた打ち身や傷の痕跡は全く無かった。先程転んで打ち付けた膝や手のひらは少しひりひりとしたが、それほど気にはならなかった。
腕を伸ばしてみるが、青痣や打ち身の痕はどこにも見当たらない。
「……りん、死んだはずなんだよね……」
不意に――熱い湯に浸かっているにもかかわらず――冷たいものが背筋を伝いおりた。りんはぶるりと身体を震わせると、身体を丸めて顎まで湯に浸かりなおした。
視界いっぱいに広がった狼たちの真っ赤な口と鋭い牙。それがりんの覚えている最後の光景になるはずだったのだ。
何故自分が助かったのかという事は、今のりんにはまだ良く解ってはいなかったが、あの白銀の妖怪が関わっていることだけは漠然と察していた。
そういえば、邪見が何やら言っていたような覚えもある。
後で(殺生丸には訊いても無駄だろうから)邪見に訊いてみようと思いながら、りんは濡らした布で顔を拭うと、そろそろ上がろうと立ち上がりかけた。
だが――
(……あれ?)
頭の芯がぐらぐらするような奇妙な感覚がする。目の前が――湯気のせいだけでなく――真っ白になっていった。
温泉の中から聞こえてきた派手な水音に、阿吽は片方の首を上げた。
今、温泉の中には人間の子供が入っているはずである。
もう片方の首を擡げて邪見が向かった方を見やるが、まだ帰ってくる様子は無い。ふらりと別の方向へ行った主がこちらに来る気配もまだないことを確認すると、双頭竜はようやく立ち上がって温泉のほうに近づいていった。
邪見同様、彼らもまた主の行動に首を傾げていたのであるが、(まず間違いなく雑用の悉くを押し付けられるであろう)邪見とは違って、彼らはある意味呑気に構えていた。
殺生丸が何を考えて人間の子供などを連れてきたのかは分からないが、主がそうしたいのであれば彼らは黙って従うだけだった。――どの道、誰が何と言おうが、殺生丸は己のしたいようにしかしないのだから。
ひょい、と首を伸ばして天然の岩風呂を覗き込むと、阿吽は少し驚いたように四つの眼を瞬かせた。
人間の子供が、ぐったりとした様子で温泉の中に浮かんでいる。
阿吽は慌てて身を乗り出すと、二つの首を伸ばして子供の両腕を傷をつけないようにそっと咥えて湯の中から引き上げた。
柔らかな草の上に子供の身体を下ろすと、子供は小さく何度か咳き込んで少し水を吐き出した。
小さな痩せこけた身体が茹で上がったように真っ赤になっている。どうやら湯あたりしたらしい。
そこまでは分かるのだが、これからどうしたものだろうかと、阿吽は双の首を傾げた。
今は湯あたりで火照っていても、このままにしておいたら急激に体温が失われてしまうことくらいは彼らにも分かる。何らかの方法でそれを防がないと、今度はそのせいで身体が弱る事は間違いなかった。
しかし、自分たちの身体を覆うのは固く冷たい鱗であり、主のようなふかふかした毛皮ではないのだ。
主を呼びに行った方がいいだろうかと首を傾げていると、当の本人がやってくる気配がした。
少女の気配の変化を察して、殺生丸は下僕と騎竜を残しておいた場所に足を向けた。
湯あたりでもしたらしく、真っ赤になってぐったりしている少女の傍らに、騎竜が困惑したように佇んでいる。
下僕の姿はなかった。少女の着物やらが無いところから察するに、どうやら着物を洗いにでも行ったらしい。
片方の頭でぐったりとしている少女を見ながら、阿吽がもう片方の頭を上げて殺生丸の方を見つめてくる。
殺生丸もあらためて少女を見下ろしてみた。
湯で温められて赤くなった肌にいくつも浮かぶ傷痕に、僅かにその金色の眼が細められる。日常生活の中でつくような傷ではなく、明らかに他者による暴行の痕跡であると判るそれは、少女の小さな身体のあちこちを埋め尽くすように浮かび上がっていた。
「……」
殺生丸は無言のまま少女の傍らに腰を下ろし、己の毛皮の端が少女の身体を覆うようにしてやった。本能的なものなのか、少女が身体を丸めて毛皮の中により深く潜り込もうとしてくるのを意識の端に捉えながら、殺生丸はゆっくりと近づいてくる下僕の匂いを嗅ぎ取っていた。
人頭杖に少女の着物を括りつけ、空いた手に焚きつけにするつもりの粗朶を抱えた邪見が戻ってきた。主の様子を見て元より大きな眼を更に見開いたものの、特には何も言わずに――あるいはただ単に絶句していただけかもしれないが――慌てて焚き火の準備を始める。
「す、すぐに着物を乾かしますので……」
主の毛皮の端から少女の手足がはみ出ているのを見れば、状況は大体予想がついた。
大方、湯あたりででもしたため、体温の低下を防ぐためにやむを得ず毛皮で覆ってやっているのであろう。人間嫌いの――加えて、鼻の利く――主がそこまでするのは不可解極まりないのだが(そんな事をすれば、まず間違いなく人間の臭いが移るのだから)、あえてそこには思考を向けないようにしておく。
集めてきた粗朶に人頭杖で火をつけると、着物を乾かそうと大急ぎで広げるが、その動きが途中で止まった。
「……あ……」
着物の身ごろの部分が何箇所が大きく裂けている。
そういえば、絞った時に何やら妙な手ごたえを感じたような気がしたが……。
「…………」
背後の気配が何だか今まで感じたことがないくらい不穏さを増しているように感じられるのは、果たして自分の気のせいであるのだろうか。振り向いて、それを確認するだけの勇気は邪見にはなかった。
「……あ、あたらしい、物を、調達してまいります、ので……」
完全に裏返った声でそう言いながら、金縛りにでもあったかのように動こうとしない四肢を何とか動かして、この場から逃れようとした邪見であったが、次の瞬間にそれは別の形で叶えられる事となる。
すっかり馴染んだ――悲しいかな――主の強烈な蹴りが見事に脇腹に入って、彼の身体は夜空に綺麗な放物線を描いて飛んで行ったのであった。
……因みに、これが邪見がりん絡みでお星様になる羽目になった、記念すべき(?)第一回目の事となるのだが、この時はまだ誰もそれを知る由もなかったのである。
「……ふん」
下僕を蹴り飛ばした後、殺生丸は面白くも無さそうに小さく鼻を鳴らした。
END
2007.9.17 脱稿
-
2007/09/17 |
- お題 |
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- ▲
お題2作目です
こんばんは、管理人です。
あれこればたばたしてて、何かすっかり疲れてしまいました。
後はおせちの準備を手伝って今年も終わりです。
何とかお題2作目が仕上がったので、アップします。
「拾い愛10のお題」の2番目です。
記事を開いてお読みください。
お題2 「責任持って面倒見ます」
[お題2作目です] Read More↓
あれこればたばたしてて、何かすっかり疲れてしまいました。
後はおせちの準備を手伝って今年も終わりです。
何とかお題2作目が仕上がったので、アップします。
「拾い愛10のお題」の2番目です。
記事を開いてお読みください。
お題2 「責任持って面倒見ます」
す、と少女の身体を支えていた手が離れ、白銀の妖は何事も無かったかのように踵を返して歩み去ろうとした。
その後を、自分の身長の二倍くらいはありそうな杖を持った緑色の小さな妖怪が慌てた様子で追いかけていく。
ほんの数瞬の間、少女はぼんやりとそれを見つめていたが、彼らの姿が遠ざかっていくのに気がつくと、慌てて立ち上がってその後を追って小走りに駆け出した。
この時の少女を突き動かしていたのは、白銀の妖に対する思慕の情と言うより、一人取り残される事への恐怖感であったと言った方が正しかったかもしれない。
――待って
まだ身体にうまく力は入らないが、少なくとも死の直前までに負っていた傷は全て癒えていた。
時折、足が縺れそうになりながらも、少女は必死で先を行く妖たちの後を追っていた。
――置いて、行かないで……!
「……あのう……殺生丸さま」
主の歩調に遅れないように小走りで着いて行きながら、邪見は恐る恐る彼の横顔を見上げて口を開いた。
「あの人間の子供が着いて来ておりますが……」
下僕に言われるまでも無く、着いてきている少女の存在には気がついていた。だが、別に興味を覚えるような事ではなかったので放っておいただけだ。
邪見はといえば、落ち着かない様子でしきりに背後を気にしていた。
何しろ、冷酷非情をもって知られ、加えて大の人間嫌いでもある主が、天生牙の癒しの力で人間の子供を助けたのだ。
己の眼で見たのでなければ、到底信じられないような出来事である。まだ、太陽が西から昇ったと言われた方が、信憑性が高いというものだ。
「追い払いますか?」
片付ける――つまりは殺すと言わなかったのは、主が(理由は全くもって不明であるが)助けた命を絶つのは流石にまずかろうと思ったからだが、これには氷のような一瞥が返ってきただけだった。
「……放っておけ」
殺生丸としても、まさか少女が後を追ってくるとは思ってこなかったため、多少の困惑を覚えていると言うのが正直な所であった。
奇妙な縁(えにし)で関わりあいになり、彼岸から命を呼び戻してはやったが、その主目的は天生牙の胴試し(試し切り)でしかなく、それ以上の関わりを持つ気など毛頭なかったのだ。
背後から、苦しそうな息遣いと早足で駆けてくる小さな足音が聞こえてくる。時折その音が遠ざかるのは、休むことなく歩み続ける彼らに着いて行くのが辛くなってきているせいだろう。
少女を引き離す事は容易い事であったが、殺生丸はそうしようとはしなかった。わざわざそんな事をしようと思うほど、少女に対して関心がなかったからだ。
とは言え、完全に見捨てると言うのもあまり後味のいいものでもなかった。
少女は気づいてはいないだろうが、彼女が漂わせている未だ生々しい血の匂いが、森の獣ども――普通の狼や野犬の類――を引き寄せていたのだ。今はまだ殺生丸を警戒して襲っては来ないが、彼が後もう少しでも距離を置いたなら、一斉に少女に襲い掛かるであろうことは容易く推察できた。
多分に成り行きであったとは言え、己が引き戻した命が他者によって絶たれるのは気分のいいものではない。
殺生丸は暫し考えを巡らせ、ややあって人里のあるほうへと足を向けた。
今は(恐らく)心細さのようなものから、自分たちに着いて来ているのだろうが、人里近くまで行けばそちらへと行くであろうと思ったのだ。
一人で生きていく術を持たぬ幼子を生き返らせたからには、面倒ではあっても、その程度の事はしてやる責任が己にあることくらいは殺生丸にも解っていたからだ。
りんは荒い息をつきながら、必死で足を動かしていた。
幸いに、と言うべきか、先を行く白銀の妖は仄かに光っていたため、その姿を見失う事は無かったが、いつまでたっても縮まらない距離が酷くもどかしかった。
傷は全て癒えていたが、所詮は子供の足である。更に言うなら、りんは元々それほど健康であるとは言いがたい子供であった。村人達の手伝いをして、何とか日々の糧を分けてもらってはいたものの、それは本当に最低限の物でしかなく、時にはそれすらも与えられない事がしばしばあったのだ。りんが口をきけないことをいい事に、彼女に渡す分を誤魔化す者も多かったからだ。
だが、りんはそれら全てを諦めと共に受け入れていた。家族を殺され、働き手としては幼すぎる自分を養ってもらっているだけでもありがたいことだと解っていたからだ。とはいっても、その事について何かしら感じていたかと言うとそういうわけでもなかった。
自分を夜盗の刃から全身で庇って命を落とした母の死体から引き剥がされた時から、りんの感覚は酷く現実感の乏しい、遠いものになってしまっていたのだ。
村人達から辛く当たられようと、些細な事を咎められて手酷く殴られて身体を酷く傷めても、りん自身はそれら全てから遠いところに在った。ただ、肉体が未だ生きていたから、惰性でそれを続けていたといってもいい。
生きる事に希望も目的も何も抱いておらず、執着さえしていなかったのだから。
あの日、森の中に倒れていた手負いの白銀の獣を見つけるまでは。
彼の姿を見たときの衝撃は、りんの中で未だに生々しく息づいている。
生々しい血と肉のにおいを剥き出しにしたその獣の姿は、紗がかかったようにぼんやりとしていたりんの世界を一瞬にして鋭い爪で引き裂いたのだ。
彼が人ではないことも、迂闊に近づけば己の命が無い事も、半ば本能的な感覚で悟ってはいたが、りんは何故かちっとも怖ろしいとは思わなかった。
だからこそ、頭からいきなり水を浴びせかけると言う(後になってよくよく考えてみると)とんでもない暴挙をしでかすことができたのだ。
それからの数日間は、りんにとって夢のような時間だった。
りんに害意が無い事が解っていたのか、最初の時のように威嚇される事はなかったが、彼女が何とか世話を焼こうとしても、彼はそのことごとくを撥ねつけた。
それでもりんは彼のところに通うのを止めようとは思わなかった。
単純に、彼の外見が物珍しかった、というのもある。まだ幼すぎて彼の持つ稀有なる美しさについては理解力が及ばなくとも、銀髪や金色の瞳はりんの眼を引き付けるには充分であったし、身に纏う着物もまた貧しい村しか知らない彼女にとっては好奇心をかき立てられるものであったからだ。
そして何より、瀕死の重傷を負っているにも拘らず、己自身の力のみで生き抜こうとするその荒々しいまでの力強さが、虚ろな日々を過ごしていたりんを圧倒したのだ。
りんは歩く速度を緩めると、ぜいぜいと荒い息をついた。
少しの間でも足を止めたら、その場にへたり込んでしまいそうだった。膝ががくがくとして真っ直ぐ歩く事さえおぼつかなくなってくる。
それでもりんは、必死で足を動かしていた。
元々栄養不足で、それ程夜目が利くほうではない上に、疲れと空腹がその目を霞ませていて、これ以上距離が離されてしまうと、先を行く妖の白銀の光も見失いそうで不安だったのだ。
ふらつく足に力を込めて、少しでも速度を上げようとやや大股に踏み出した瞬間、ぐらりと上体が不自然に揺らいだ。
「――!」
疲れきって棒のようになった足では転ばないように踏みとどまる事も出来ず、りんは無様に地面に突っ伏す羽目になった。
「……」
膝を打ち付けてしまい、痛みのあまり喉の奥から苦しげな息が押し出される。のろのろと身体を起こすと、着物の裾から覗いた膝が擦り剥けて、じわりと血が滲んでいた。咄嗟に手を突いてもいたため、手のひらも少し擦りむいている。転んだためとは言え、一旦座り込んでしまった身体にはなかなか力が入らず、漸く立ち上がれたときには白銀の光はかなり遠くに行ってしまっていた。
力の入らない足を何とか動かして再び歩き始めたりんの耳に、自分以外の複数の生き物の荒い息遣いが聞こえてきたのはその時であった。
背後の気配の変化を感じ取って、殺生丸は足を止めて振り返った。
何とかつかず離れず後を追って来ていた気配が、不意に遠ざかっている。それと同時に微かなものではあったが、新しい血の匂いを嗅ぎ取って、妖の眉が僅かに寄せられた。
「……殺生丸さま?」
不意に立ち止まった主に、邪見が怪訝そうにそう呼びかけてくるが、殺生丸はそれを無視して踵を返した。慌てたように後を追ってくる下僕には構わずに、早足で進んでいく。
先程から少女と自分との距離を見計らっていた狼どもが、新たな血の匂いに引き付けられるのは火を見るより明らかであり、徐々に遅れがちになっていた少女の足では、それらから逃れる事は不可能である事もまた明確であったからだ。
そう考えながらも同時に、何故そこまでする必要があるのか、と意識の片隅で囁く声があるのもまた事実であった。
黄泉路より引き戻した責任というものは確かにあるかもしれないが、たかが人間の小娘一匹のために、この殺生丸ともあろう者が何故そこまで義理立てせねばならぬのか、と。
その考えを間違ってはいないと思いつつも、殺生丸の歩みは止まる事は無かった。
そして、ややあって彼の眼に映ったのは概ね予想していた通りの光景であった。
木を背にして立ち、かろうじて己の身体を支えている少女の周囲を、数頭の狼どもが取り囲んでいる。その膝には血が滲んでいたが、たとえその傷が無かったとしても、足ががくがくと痙攣を起こしているような状態ではそれ以上は動けなかったであろう。ただでさえあまり血色が良いとはいえなかった顔の色を更に蒼白なものにして、少女はじりじりと迫ってくる狼たちをただ見ているだけであった。
殺生丸はそれを見ると、すいと一歩前に踏み出した。
彼の気配を感じ取った狼どもの間に、目に見えない緊張感が走る。一頭、また一頭と彼から――そして少女から離れようとするその様子に、恐怖に凍りついていた少女の顔が僅かに動き、やや離れた所に佇む殺生丸の姿を認める。
その瞬間、少女の大きな眼に浮かんだ感情の色は、永き時を生きてきた妖も見た事のないそれであった。
怯えたようにじりじりと遠ざかっていく狼どもには構わずに、殺生丸が少女の方に歩を進めると、少女もまた真っ直ぐに彼を見つめ返してきた。
痩せこけた小さな人間の少女が、血と殺戮に彩られた永き時の中に身を置いている稀代の大妖怪を前にして、怯むことなくその眼を見返しているのだ。
その事に僅かに興を覚えながらも、殺生丸は静かに右腕を上げて、北の方角を指した。少女が怪訝そうな顔になるのを見て、簡潔に要点だけを口にする。
「この先に人里がある。そこへ行け」
その言葉に少女が眼を見開いて、激しくかぶりを振る。その拍子に身体がぐらりと傾ぎ、木の根元に座り込んでしまうような体勢になるが、それでも少女はかぶりを振り続けた。
「口は利けずとも、耳は聞こえるだろう。――二度も言わせるな」
きゅっと唇を噛み締めて頑なにかぶりを振り続ける少女の膝はまだがくがくと震えていて、当分の間は動けそうに無い事を示している。このまま放っておいたら、今度こそ獣の餌食になるであろうことは間違いなかった。
だが、殺生丸の気紛れもそろそろ限界に来ていた。元より、さほど気の長いほうではないのだ。
少女が素直に人里へ向かうようであれば、もう少しその気紛れも持続していたであろうが、頑なにかぶりを振り続ける姿にその気が失せたとしても無理は無かった。
一方、少女の方はこみ上げる感情を持て余して、ただただかぶりを振っていた。
再び狼たちに襲われそうになって、恐怖に身体が凍りついていた時に現れた白銀の妖の姿に、りんは泣きたくなるほどの安堵感を感じていた。助けてもらえるとかそういったことは二の次で、ただその姿を再び見る事が出来た――その事が――ただそれだけの事が――、どうしようもないくらいの安堵感をもたらしてくれたのだ。
家族を喪って以来、そのようなものを感じたことのなかったりんが、それにしがみついたとしても無理は無かっただろう。ましてや、住んでいた村が狼たちによって壊滅させられた今、りんにとって確かなものはこの白銀の妖の存在だけだったのだから。
必死の思いで妖を見上げるが、妖の金色の眼は無表情にりんを見下ろしているだけで、特にこれといった感情の動きは見られない。そして不意に興味を失くしたかのように踵を返すと、そのまま少女の前から立ち去ろうとした。
置いていかれる――ひとり取り残される――と察した瞬間、りんの中で渦巻いていた様々な感情が、ついに堰を切って溢れ出してきた。
「……待って!」
その言葉が音としてその場に響いた瞬間、その場にいた者たちは二人が二人とも動きを止めた。
少女が口を利けぬ身であると知っていた妖の男は、僅かな驚きの色を白皙の面に滲ませて振り返り、思いがけず己の声を取り戻した少女もまた、今起こったことが信じられぬといった面持ちで喉に手を当てている。
声を取り戻した感慨に浸る間もなく、少女は何度か瞬きをした後、振り向いた妖の顔を見上げて、再び口を開こうとしたが、冷ややかに見つめ返す金色の眼の光にあった途端、再び言葉を失くしたかのように口を噤んでしまった。
妖の冷たい金色の眼には、甘えや依存と言った生ぬるい感情の入り込む余地など一切無かったからだ。
「……あ、あの……」
喉の奥で空気が絡んだようになって、言葉が上手く出てこない。
「……あの……」
そんな少女の様子を、殺生丸は無表情に見下ろしていた。
妖の眼には少女の感情の乱れや、幼すぎて自らの心の内を上手く表現できないもどかしさなどを全て見て取る事が出来た。
もっとも、そういった気の流れなどを読むまでもなく、懸命な光を湛えて見上げてくるその黒目がちの瞳を覗き込めば、取り繕う事を知らぬ幼い少女の考えなどは容易く読み取る事が出来たのだが。
一人取り残される事への恐怖と混乱とともに、ひたむきなまでの懸命さを滲ませて見上げてくる黒い瞳に、殺生丸はふと興を覚えた。
己に対して、恐怖でも憎悪でもなく、また媚もへつらいも含むことの無い眼差しを向けてくる存在など、絶えてなかったからだ。
――面白い
ちっぽけで取るに足らない――僅かにこの爪が掠めただけでも容易く死に至るような――脆弱極まりない存在が、怖れる事も怯む事も無く、大妖怪である己を真っ直ぐに見上げてきているのだ。
これが興をそそらずにいられようか。
一度は失せかけた気紛れな感情が再び頭を擡げはじめる。
言葉を捜しあぐねて戸惑いがちに唇を震わせている少女の顔を見下ろすと、殺生丸はゆっくりと口を開いた。
「――名は?」
低く、静かな声で発せられた問いに、少女がただでさえ大きな眼をさらに見開いた。
今聞いた言葉が信じられないと言うように何度か瞬きをして、殺生丸を見上げ――不意にその顔に満面の笑みが広がった。やはり何の含みも持たないその笑顔を見下ろして、殺生丸は目線だけで少女に答えを促した。
「……ぃ…ん……」
それを察した少女がもどかしげに唇を動かすが、声を取り戻したばかりの喉は、まだ上手く音を紡ぎ出せないようであった。
それでも何度か唇を動かして、少女は漸く己の名を口にした。
「――り…ん」
きちんと発音できた事が嬉しかったのか、少女の笑顔が更に明るさを増した。
「りん、っていうの!」
澄んだ高い声が妖の耳朶を打ち、それと同時に――何故そうしたのかは全く分からなかったのだが――男もまた己の名を口にしていた。
「――殺生丸だ」
妖と人の子が名を交わしたその瞬間、当事者たちの与り知らぬところで運命の歯車は確かに動き始めたのだ。
〈終〉
脱稿:2006.12.30
その後を、自分の身長の二倍くらいはありそうな杖を持った緑色の小さな妖怪が慌てた様子で追いかけていく。
ほんの数瞬の間、少女はぼんやりとそれを見つめていたが、彼らの姿が遠ざかっていくのに気がつくと、慌てて立ち上がってその後を追って小走りに駆け出した。
この時の少女を突き動かしていたのは、白銀の妖に対する思慕の情と言うより、一人取り残される事への恐怖感であったと言った方が正しかったかもしれない。
――待って
まだ身体にうまく力は入らないが、少なくとも死の直前までに負っていた傷は全て癒えていた。
時折、足が縺れそうになりながらも、少女は必死で先を行く妖たちの後を追っていた。
――置いて、行かないで……!
「……あのう……殺生丸さま」
主の歩調に遅れないように小走りで着いて行きながら、邪見は恐る恐る彼の横顔を見上げて口を開いた。
「あの人間の子供が着いて来ておりますが……」
下僕に言われるまでも無く、着いてきている少女の存在には気がついていた。だが、別に興味を覚えるような事ではなかったので放っておいただけだ。
邪見はといえば、落ち着かない様子でしきりに背後を気にしていた。
何しろ、冷酷非情をもって知られ、加えて大の人間嫌いでもある主が、天生牙の癒しの力で人間の子供を助けたのだ。
己の眼で見たのでなければ、到底信じられないような出来事である。まだ、太陽が西から昇ったと言われた方が、信憑性が高いというものだ。
「追い払いますか?」
片付ける――つまりは殺すと言わなかったのは、主が(理由は全くもって不明であるが)助けた命を絶つのは流石にまずかろうと思ったからだが、これには氷のような一瞥が返ってきただけだった。
「……放っておけ」
殺生丸としても、まさか少女が後を追ってくるとは思ってこなかったため、多少の困惑を覚えていると言うのが正直な所であった。
奇妙な縁(えにし)で関わりあいになり、彼岸から命を呼び戻してはやったが、その主目的は天生牙の胴試し(試し切り)でしかなく、それ以上の関わりを持つ気など毛頭なかったのだ。
背後から、苦しそうな息遣いと早足で駆けてくる小さな足音が聞こえてくる。時折その音が遠ざかるのは、休むことなく歩み続ける彼らに着いて行くのが辛くなってきているせいだろう。
少女を引き離す事は容易い事であったが、殺生丸はそうしようとはしなかった。わざわざそんな事をしようと思うほど、少女に対して関心がなかったからだ。
とは言え、完全に見捨てると言うのもあまり後味のいいものでもなかった。
少女は気づいてはいないだろうが、彼女が漂わせている未だ生々しい血の匂いが、森の獣ども――普通の狼や野犬の類――を引き寄せていたのだ。今はまだ殺生丸を警戒して襲っては来ないが、彼が後もう少しでも距離を置いたなら、一斉に少女に襲い掛かるであろうことは容易く推察できた。
多分に成り行きであったとは言え、己が引き戻した命が他者によって絶たれるのは気分のいいものではない。
殺生丸は暫し考えを巡らせ、ややあって人里のあるほうへと足を向けた。
今は(恐らく)心細さのようなものから、自分たちに着いて来ているのだろうが、人里近くまで行けばそちらへと行くであろうと思ったのだ。
一人で生きていく術を持たぬ幼子を生き返らせたからには、面倒ではあっても、その程度の事はしてやる責任が己にあることくらいは殺生丸にも解っていたからだ。
りんは荒い息をつきながら、必死で足を動かしていた。
幸いに、と言うべきか、先を行く白銀の妖は仄かに光っていたため、その姿を見失う事は無かったが、いつまでたっても縮まらない距離が酷くもどかしかった。
傷は全て癒えていたが、所詮は子供の足である。更に言うなら、りんは元々それほど健康であるとは言いがたい子供であった。村人達の手伝いをして、何とか日々の糧を分けてもらってはいたものの、それは本当に最低限の物でしかなく、時にはそれすらも与えられない事がしばしばあったのだ。りんが口をきけないことをいい事に、彼女に渡す分を誤魔化す者も多かったからだ。
だが、りんはそれら全てを諦めと共に受け入れていた。家族を殺され、働き手としては幼すぎる自分を養ってもらっているだけでもありがたいことだと解っていたからだ。とはいっても、その事について何かしら感じていたかと言うとそういうわけでもなかった。
自分を夜盗の刃から全身で庇って命を落とした母の死体から引き剥がされた時から、りんの感覚は酷く現実感の乏しい、遠いものになってしまっていたのだ。
村人達から辛く当たられようと、些細な事を咎められて手酷く殴られて身体を酷く傷めても、りん自身はそれら全てから遠いところに在った。ただ、肉体が未だ生きていたから、惰性でそれを続けていたといってもいい。
生きる事に希望も目的も何も抱いておらず、執着さえしていなかったのだから。
あの日、森の中に倒れていた手負いの白銀の獣を見つけるまでは。
彼の姿を見たときの衝撃は、りんの中で未だに生々しく息づいている。
生々しい血と肉のにおいを剥き出しにしたその獣の姿は、紗がかかったようにぼんやりとしていたりんの世界を一瞬にして鋭い爪で引き裂いたのだ。
彼が人ではないことも、迂闊に近づけば己の命が無い事も、半ば本能的な感覚で悟ってはいたが、りんは何故かちっとも怖ろしいとは思わなかった。
だからこそ、頭からいきなり水を浴びせかけると言う(後になってよくよく考えてみると)とんでもない暴挙をしでかすことができたのだ。
それからの数日間は、りんにとって夢のような時間だった。
りんに害意が無い事が解っていたのか、最初の時のように威嚇される事はなかったが、彼女が何とか世話を焼こうとしても、彼はそのことごとくを撥ねつけた。
それでもりんは彼のところに通うのを止めようとは思わなかった。
単純に、彼の外見が物珍しかった、というのもある。まだ幼すぎて彼の持つ稀有なる美しさについては理解力が及ばなくとも、銀髪や金色の瞳はりんの眼を引き付けるには充分であったし、身に纏う着物もまた貧しい村しか知らない彼女にとっては好奇心をかき立てられるものであったからだ。
そして何より、瀕死の重傷を負っているにも拘らず、己自身の力のみで生き抜こうとするその荒々しいまでの力強さが、虚ろな日々を過ごしていたりんを圧倒したのだ。
りんは歩く速度を緩めると、ぜいぜいと荒い息をついた。
少しの間でも足を止めたら、その場にへたり込んでしまいそうだった。膝ががくがくとして真っ直ぐ歩く事さえおぼつかなくなってくる。
それでもりんは、必死で足を動かしていた。
元々栄養不足で、それ程夜目が利くほうではない上に、疲れと空腹がその目を霞ませていて、これ以上距離が離されてしまうと、先を行く妖の白銀の光も見失いそうで不安だったのだ。
ふらつく足に力を込めて、少しでも速度を上げようとやや大股に踏み出した瞬間、ぐらりと上体が不自然に揺らいだ。
「――!」
疲れきって棒のようになった足では転ばないように踏みとどまる事も出来ず、りんは無様に地面に突っ伏す羽目になった。
「……」
膝を打ち付けてしまい、痛みのあまり喉の奥から苦しげな息が押し出される。のろのろと身体を起こすと、着物の裾から覗いた膝が擦り剥けて、じわりと血が滲んでいた。咄嗟に手を突いてもいたため、手のひらも少し擦りむいている。転んだためとは言え、一旦座り込んでしまった身体にはなかなか力が入らず、漸く立ち上がれたときには白銀の光はかなり遠くに行ってしまっていた。
力の入らない足を何とか動かして再び歩き始めたりんの耳に、自分以外の複数の生き物の荒い息遣いが聞こえてきたのはその時であった。
背後の気配の変化を感じ取って、殺生丸は足を止めて振り返った。
何とかつかず離れず後を追って来ていた気配が、不意に遠ざかっている。それと同時に微かなものではあったが、新しい血の匂いを嗅ぎ取って、妖の眉が僅かに寄せられた。
「……殺生丸さま?」
不意に立ち止まった主に、邪見が怪訝そうにそう呼びかけてくるが、殺生丸はそれを無視して踵を返した。慌てたように後を追ってくる下僕には構わずに、早足で進んでいく。
先程から少女と自分との距離を見計らっていた狼どもが、新たな血の匂いに引き付けられるのは火を見るより明らかであり、徐々に遅れがちになっていた少女の足では、それらから逃れる事は不可能である事もまた明確であったからだ。
そう考えながらも同時に、何故そこまでする必要があるのか、と意識の片隅で囁く声があるのもまた事実であった。
黄泉路より引き戻した責任というものは確かにあるかもしれないが、たかが人間の小娘一匹のために、この殺生丸ともあろう者が何故そこまで義理立てせねばならぬのか、と。
その考えを間違ってはいないと思いつつも、殺生丸の歩みは止まる事は無かった。
そして、ややあって彼の眼に映ったのは概ね予想していた通りの光景であった。
木を背にして立ち、かろうじて己の身体を支えている少女の周囲を、数頭の狼どもが取り囲んでいる。その膝には血が滲んでいたが、たとえその傷が無かったとしても、足ががくがくと痙攣を起こしているような状態ではそれ以上は動けなかったであろう。ただでさえあまり血色が良いとはいえなかった顔の色を更に蒼白なものにして、少女はじりじりと迫ってくる狼たちをただ見ているだけであった。
殺生丸はそれを見ると、すいと一歩前に踏み出した。
彼の気配を感じ取った狼どもの間に、目に見えない緊張感が走る。一頭、また一頭と彼から――そして少女から離れようとするその様子に、恐怖に凍りついていた少女の顔が僅かに動き、やや離れた所に佇む殺生丸の姿を認める。
その瞬間、少女の大きな眼に浮かんだ感情の色は、永き時を生きてきた妖も見た事のないそれであった。
怯えたようにじりじりと遠ざかっていく狼どもには構わずに、殺生丸が少女の方に歩を進めると、少女もまた真っ直ぐに彼を見つめ返してきた。
痩せこけた小さな人間の少女が、血と殺戮に彩られた永き時の中に身を置いている稀代の大妖怪を前にして、怯むことなくその眼を見返しているのだ。
その事に僅かに興を覚えながらも、殺生丸は静かに右腕を上げて、北の方角を指した。少女が怪訝そうな顔になるのを見て、簡潔に要点だけを口にする。
「この先に人里がある。そこへ行け」
その言葉に少女が眼を見開いて、激しくかぶりを振る。その拍子に身体がぐらりと傾ぎ、木の根元に座り込んでしまうような体勢になるが、それでも少女はかぶりを振り続けた。
「口は利けずとも、耳は聞こえるだろう。――二度も言わせるな」
きゅっと唇を噛み締めて頑なにかぶりを振り続ける少女の膝はまだがくがくと震えていて、当分の間は動けそうに無い事を示している。このまま放っておいたら、今度こそ獣の餌食になるであろうことは間違いなかった。
だが、殺生丸の気紛れもそろそろ限界に来ていた。元より、さほど気の長いほうではないのだ。
少女が素直に人里へ向かうようであれば、もう少しその気紛れも持続していたであろうが、頑なにかぶりを振り続ける姿にその気が失せたとしても無理は無かった。
一方、少女の方はこみ上げる感情を持て余して、ただただかぶりを振っていた。
再び狼たちに襲われそうになって、恐怖に身体が凍りついていた時に現れた白銀の妖の姿に、りんは泣きたくなるほどの安堵感を感じていた。助けてもらえるとかそういったことは二の次で、ただその姿を再び見る事が出来た――その事が――ただそれだけの事が――、どうしようもないくらいの安堵感をもたらしてくれたのだ。
家族を喪って以来、そのようなものを感じたことのなかったりんが、それにしがみついたとしても無理は無かっただろう。ましてや、住んでいた村が狼たちによって壊滅させられた今、りんにとって確かなものはこの白銀の妖の存在だけだったのだから。
必死の思いで妖を見上げるが、妖の金色の眼は無表情にりんを見下ろしているだけで、特にこれといった感情の動きは見られない。そして不意に興味を失くしたかのように踵を返すと、そのまま少女の前から立ち去ろうとした。
置いていかれる――ひとり取り残される――と察した瞬間、りんの中で渦巻いていた様々な感情が、ついに堰を切って溢れ出してきた。
「……待って!」
その言葉が音としてその場に響いた瞬間、その場にいた者たちは二人が二人とも動きを止めた。
少女が口を利けぬ身であると知っていた妖の男は、僅かな驚きの色を白皙の面に滲ませて振り返り、思いがけず己の声を取り戻した少女もまた、今起こったことが信じられぬといった面持ちで喉に手を当てている。
声を取り戻した感慨に浸る間もなく、少女は何度か瞬きをした後、振り向いた妖の顔を見上げて、再び口を開こうとしたが、冷ややかに見つめ返す金色の眼の光にあった途端、再び言葉を失くしたかのように口を噤んでしまった。
妖の冷たい金色の眼には、甘えや依存と言った生ぬるい感情の入り込む余地など一切無かったからだ。
「……あ、あの……」
喉の奥で空気が絡んだようになって、言葉が上手く出てこない。
「……あの……」
そんな少女の様子を、殺生丸は無表情に見下ろしていた。
妖の眼には少女の感情の乱れや、幼すぎて自らの心の内を上手く表現できないもどかしさなどを全て見て取る事が出来た。
もっとも、そういった気の流れなどを読むまでもなく、懸命な光を湛えて見上げてくるその黒目がちの瞳を覗き込めば、取り繕う事を知らぬ幼い少女の考えなどは容易く読み取る事が出来たのだが。
一人取り残される事への恐怖と混乱とともに、ひたむきなまでの懸命さを滲ませて見上げてくる黒い瞳に、殺生丸はふと興を覚えた。
己に対して、恐怖でも憎悪でもなく、また媚もへつらいも含むことの無い眼差しを向けてくる存在など、絶えてなかったからだ。
――面白い
ちっぽけで取るに足らない――僅かにこの爪が掠めただけでも容易く死に至るような――脆弱極まりない存在が、怖れる事も怯む事も無く、大妖怪である己を真っ直ぐに見上げてきているのだ。
これが興をそそらずにいられようか。
一度は失せかけた気紛れな感情が再び頭を擡げはじめる。
言葉を捜しあぐねて戸惑いがちに唇を震わせている少女の顔を見下ろすと、殺生丸はゆっくりと口を開いた。
「――名は?」
低く、静かな声で発せられた問いに、少女がただでさえ大きな眼をさらに見開いた。
今聞いた言葉が信じられないと言うように何度か瞬きをして、殺生丸を見上げ――不意にその顔に満面の笑みが広がった。やはり何の含みも持たないその笑顔を見下ろして、殺生丸は目線だけで少女に答えを促した。
「……ぃ…ん……」
それを察した少女がもどかしげに唇を動かすが、声を取り戻したばかりの喉は、まだ上手く音を紡ぎ出せないようであった。
それでも何度か唇を動かして、少女は漸く己の名を口にした。
「――り…ん」
きちんと発音できた事が嬉しかったのか、少女の笑顔が更に明るさを増した。
「りん、っていうの!」
澄んだ高い声が妖の耳朶を打ち、それと同時に――何故そうしたのかは全く分からなかったのだが――男もまた己の名を口にしていた。
「――殺生丸だ」
妖と人の子が名を交わしたその瞬間、当事者たちの与り知らぬところで運命の歯車は確かに動き始めたのだ。
〈終〉
脱稿:2006.12.30
-
2006/12/30 |
- お題 |
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- ▲
まずは原点から
こんばんは、管理人です。
昨日はチャットに参加して、気持ちよくお話して来ましたv
お相手してくださった方々、ありがとうございます。m(__)m
何とかお題創作一作目が仕上がりましたので、アップします。
殺りん原点に戻ってみました。
「拾い愛10のお題」から。
1.…拾っちゃった
記事を開いてお読みください。
[まずは原点から] Read More↓
昨日はチャットに参加して、気持ちよくお話して来ましたv
お相手してくださった方々、ありがとうございます。m(__)m
何とかお題創作一作目が仕上がりましたので、アップします。
殺りん原点に戻ってみました。
「拾い愛10のお題」から。
1.…拾っちゃった
記事を開いてお読みください。
あの時、もし僅かでも身体が動かせていたなら、この小さな生き物の命は無かったであろう。
人の近づいてくる気配を感じた瞬間、殺生丸は手負いの獣そのままに鋭くその相手を威嚇していた。
次の瞬間、その相手がまだ年端も行かない幼い少女であると気がついたが、それで警戒を解いた訳ではない。幼くとも他の人間を呼びに行く事は出来るのだ。
だが、その少女は踵を返して他の人間を呼びに行く代わりに、そろそろと近づいてきて、手にした竹筒の水を頭からぶちまけた。
冷たい水の感触に一瞬虚をつかれた形になって、少女を見返したとき、眼に入ったのは心配そうにこちらを窺う黒い瞳だった。
それから数日間、殺生丸はその場所から動かなかった。
風の傷によって負った傷は思いの外深く、妖怪の治癒力をもってしても、完治までには暫く時間がかかったからだ。
その間にも人間の少女は度々彼の元を訪れ、要らぬ世話を焼こうとしたが、殺生丸はそのことごとくを撥ね付けていた。とはいえ、少女に害意が無い事だけは判ったので、あえてその命を奪おうとまではしなかった。
これは、破格の気遣いであると言うより、単に面倒だった、という方が正確だったかもしれない。人間が羽虫をわざわざ探し出してまで殺そうとしないのと同じような感覚であるとも言える。
ともあれ、妖と少女との不思議な逢瀬は暫く続いた。
狼どもによって、少女の命の灯火があっけなくかき消される日が来るまで。
隻腕で抱き起こした少女の身体は、痛々しいまでに軽かった。
薄汚れた粗末な着物越しでもはっきりと分かるほどに、痩せこけて肉付きの悪い小さな身体からは、子供特有の柔らかさや弾力と言ったものが全くと言ってもいいくらい感じられない。
そして何よりも、その小さな身体から漂う生々しい血の匂いが、殺生丸の裡(うち)に名状しがたいざわめきを生じさせていたのだ。
殺生丸は無言のまま、腕の中の少女を見下ろしていた。
とくん
澱み、冷えつつあった血が、再び少女の体内を巡り始める。
とくん
痩せた小さな身体の中で、心の臓が再び規則正しく鼓動を打ち始めた。
顔に触れる毛皮の感触が擽ったかったのか、僅かに身じろいでゆっくりと目を開けると同時に、乾いた小さな唇から「はー」と細い吐息が零れた。
全てが灰色に塗りつぶされたぼんやりとした世界の中で、その獣の姿だけが鮮やかな色彩を伴って少女の視界に飛び込んできた。
その獣は人に似た姿を取っていたが、それが人間でない事は一目で見て取れた。
乱れた白銀の髪の間から覗く耳は鋭く尖っており、両の瞳は血の色に染まっている。酷い怪我を負っているらしく、鋭い牙が見え隠れする口からはしゅうしゅうと荒い息が洩れており、見た事もないような豪奢な着物も所々血に染まって破れていた。
普通の人間であればその姿を一目見ただけで踵を返し、一目散に逃げ出すか、あるいは止めを刺そうと徒党を組んで出直すところであっただろうが、りんはそのどちらもしなかった。
やや躊躇いがちではあったものの――鋭く威嚇されたので無理はないだろうが――その獣に近寄って、手にした竹筒の水を頭から浴びせかけたのだ。
次にりんがそこに行った時、彼の様子は少し落ち着いて見えた。血の色に染まっていた両眼は冷たい金色になっており、全身に走っていた生々しい傷もぱっと見には分からなくなっている。
それでもやはり心配で、あれこれと世話を焼くりんを、男は素っ気無い態度で突き放したが、最初の時のように威嚇する事は無くなっていた。
人間の食い物は口に合わない、と言っていたが、魚なら食べてくれるかもしれないと、何日か続けて村の生簀を荒らしていたら、村の大人達に見つかって、手酷く殴られた。口のきけないりんが悲鳴などをあげる事が出来ない事もあって、村人達の暴行はいつも行き過ぎの一歩手前くらいまでいくのだ。
翌日、りんが眼を覚ますと片目が開かなかった。昨日打たれた所が、酷く腫れてしまったらしい。身体のあちこちからも、動くたびに脳天まで突き抜けるような痛みが走るが、りんの足は森へと向かっていた。
魚が手に入らなかったので、代わりにネズミとトカゲを差し出してみたが、これにも短く「いらん」という答えが返ってきただけだった。
その素っ気無い態度に、りんが深くため息をついていると、不意に別の言葉がかけられた。
「顔をどうした?」
その言葉に弾かれたように顔を上げたりんは、口がきけないのも忘れて何度か唇を動かしたが、乾いた小さな吐息が僅かに零れでただけだった。
その様子を見ていた男が低い声で言葉を続ける。
「…言いたくなければいい」
声にも表情にも特にこれと言った感情の動きは見られなかったが、続いてのその言葉に、りんの胸の中にじわりと温かいものがこみ上げてきた。
家族が野党に殺されてからこのかた、りんに対してそういう言葉をかけてくれる人は誰もいなかったからだ。
りんがひもじい思いをしていようが、凍えそうになっていようが、村人達の誰一人として気にかけてくれる事はなかった。働き手としてはあまりにも幼すぎ、家族を殺されてから言葉を失った彼女は、村人達にとっては厄介者以外の何者でもなかったからだ。
こみあげてくるあたたかい感情のままに、りんは傷だらけでぼろぼろになった顔でにっこりと笑っていた。
嬉しい、と思った。
痛めつけられた身体のあちこちは変わらず痛みを訴えてくるが、そんな事は気にならないくらい心が浮き立っていた。小さく口笛――というより、微かに息が洩れているだけのようなものであったが――を吹きながら、村へと戻っていく。
そこに待ち受けていた無慈悲な運命のことなど知る由もなく。
痛む身体を引きずるようにして、りんは懸命に走っていた。
急激な運動のせいで酷使された肺腑が限界を訴えてくる。息苦しさと全身に走る痛みに目の前が真っ赤になるような錯覚を覚えながらも、りんは必死で足を動かしていた。
背後から、複数の獣の荒い息遣いが聞こえてくる。
つい先刻、村人達を食い殺していた狼の群れの数頭だった。
獣の足をもってすれば、怪我をした童女の足に追いつく事など容易い事であろうに、あえてすぐに襲い掛かる事をしないのは、明らかに獲物を追い詰める事を楽しんでいるからだった。
だがりんにそんな事が判る筈もない。
限界まで酷使された身体には既に感覚もなく、頭の中は恐怖で真っ白になっていた。どうしてこんな事に、と己に降りかかった不運を嘆く余地もないほどにりんは追い詰められていたのだ。
ただただ原始的な生存本能に突き動かされるまま、必死で動かしていた足が木の根に躓いた。
身体が不自然にぐらついたその瞬間、思わず振り向いたりんの眼に最後に映ったのは、牙を剥き出して襲い掛かってくる狼たちの姿であった。
とくん
何の音だろう?
とくん
頭がぼんやりして、うまくものが考えられない。
とくん
自分は、死んだはずなのに――
とくん
何か、ふわふわとしたものが頬に当たっている。
何か、とても力強いものが自分の身体を支えている。
それが何であるのか知りたいと思った瞬間、りんの瞼は開いていた。
「……」
か細い吐息が薄く開いた唇から洩れる。
視界はまだぼんやりとしていてはっきりとしないが、自分の側にあの白銀の獣がいる事だけは何故か認識できた。
それとほぼ同時に、りんの五感は一気に鮮明になった。
森と土のにおいに混じって濃厚な血の臭いが鼻をつく。
ひんやりとした夜気とふわふわとした不思議な感触が頬を撫でていく。
力強く、温かい腕が自分の身体を支えている。
木々のざわめきに混じって何やら甲高い声が聞こえてくる。
そして――身体の中で、しっかりと脈打つ命の鼓動を、全身でりんは感じ取っていた。
ぼんやりとしていた視界が、徐々に明瞭なものになってくる。その中心にあの白銀の獣がいた。
冷たい光を湛えた金色の眼が無表情に自分を見下ろしているのを見つめ返した瞬間、りんは己が此岸へと引き戻されたことを悟ったのだった。
終
脱稿:2006.11.05
人の近づいてくる気配を感じた瞬間、殺生丸は手負いの獣そのままに鋭くその相手を威嚇していた。
次の瞬間、その相手がまだ年端も行かない幼い少女であると気がついたが、それで警戒を解いた訳ではない。幼くとも他の人間を呼びに行く事は出来るのだ。
だが、その少女は踵を返して他の人間を呼びに行く代わりに、そろそろと近づいてきて、手にした竹筒の水を頭からぶちまけた。
冷たい水の感触に一瞬虚をつかれた形になって、少女を見返したとき、眼に入ったのは心配そうにこちらを窺う黒い瞳だった。
それから数日間、殺生丸はその場所から動かなかった。
風の傷によって負った傷は思いの外深く、妖怪の治癒力をもってしても、完治までには暫く時間がかかったからだ。
その間にも人間の少女は度々彼の元を訪れ、要らぬ世話を焼こうとしたが、殺生丸はそのことごとくを撥ね付けていた。とはいえ、少女に害意が無い事だけは判ったので、あえてその命を奪おうとまではしなかった。
これは、破格の気遣いであると言うより、単に面倒だった、という方が正確だったかもしれない。人間が羽虫をわざわざ探し出してまで殺そうとしないのと同じような感覚であるとも言える。
ともあれ、妖と少女との不思議な逢瀬は暫く続いた。
狼どもによって、少女の命の灯火があっけなくかき消される日が来るまで。
隻腕で抱き起こした少女の身体は、痛々しいまでに軽かった。
薄汚れた粗末な着物越しでもはっきりと分かるほどに、痩せこけて肉付きの悪い小さな身体からは、子供特有の柔らかさや弾力と言ったものが全くと言ってもいいくらい感じられない。
そして何よりも、その小さな身体から漂う生々しい血の匂いが、殺生丸の裡(うち)に名状しがたいざわめきを生じさせていたのだ。
殺生丸は無言のまま、腕の中の少女を見下ろしていた。
とくん
澱み、冷えつつあった血が、再び少女の体内を巡り始める。
とくん
痩せた小さな身体の中で、心の臓が再び規則正しく鼓動を打ち始めた。
顔に触れる毛皮の感触が擽ったかったのか、僅かに身じろいでゆっくりと目を開けると同時に、乾いた小さな唇から「はー」と細い吐息が零れた。
全てが灰色に塗りつぶされたぼんやりとした世界の中で、その獣の姿だけが鮮やかな色彩を伴って少女の視界に飛び込んできた。
その獣は人に似た姿を取っていたが、それが人間でない事は一目で見て取れた。
乱れた白銀の髪の間から覗く耳は鋭く尖っており、両の瞳は血の色に染まっている。酷い怪我を負っているらしく、鋭い牙が見え隠れする口からはしゅうしゅうと荒い息が洩れており、見た事もないような豪奢な着物も所々血に染まって破れていた。
普通の人間であればその姿を一目見ただけで踵を返し、一目散に逃げ出すか、あるいは止めを刺そうと徒党を組んで出直すところであっただろうが、りんはそのどちらもしなかった。
やや躊躇いがちではあったものの――鋭く威嚇されたので無理はないだろうが――その獣に近寄って、手にした竹筒の水を頭から浴びせかけたのだ。
次にりんがそこに行った時、彼の様子は少し落ち着いて見えた。血の色に染まっていた両眼は冷たい金色になっており、全身に走っていた生々しい傷もぱっと見には分からなくなっている。
それでもやはり心配で、あれこれと世話を焼くりんを、男は素っ気無い態度で突き放したが、最初の時のように威嚇する事は無くなっていた。
人間の食い物は口に合わない、と言っていたが、魚なら食べてくれるかもしれないと、何日か続けて村の生簀を荒らしていたら、村の大人達に見つかって、手酷く殴られた。口のきけないりんが悲鳴などをあげる事が出来ない事もあって、村人達の暴行はいつも行き過ぎの一歩手前くらいまでいくのだ。
翌日、りんが眼を覚ますと片目が開かなかった。昨日打たれた所が、酷く腫れてしまったらしい。身体のあちこちからも、動くたびに脳天まで突き抜けるような痛みが走るが、りんの足は森へと向かっていた。
魚が手に入らなかったので、代わりにネズミとトカゲを差し出してみたが、これにも短く「いらん」という答えが返ってきただけだった。
その素っ気無い態度に、りんが深くため息をついていると、不意に別の言葉がかけられた。
「顔をどうした?」
その言葉に弾かれたように顔を上げたりんは、口がきけないのも忘れて何度か唇を動かしたが、乾いた小さな吐息が僅かに零れでただけだった。
その様子を見ていた男が低い声で言葉を続ける。
「…言いたくなければいい」
声にも表情にも特にこれと言った感情の動きは見られなかったが、続いてのその言葉に、りんの胸の中にじわりと温かいものがこみ上げてきた。
家族が野党に殺されてからこのかた、りんに対してそういう言葉をかけてくれる人は誰もいなかったからだ。
りんがひもじい思いをしていようが、凍えそうになっていようが、村人達の誰一人として気にかけてくれる事はなかった。働き手としてはあまりにも幼すぎ、家族を殺されてから言葉を失った彼女は、村人達にとっては厄介者以外の何者でもなかったからだ。
こみあげてくるあたたかい感情のままに、りんは傷だらけでぼろぼろになった顔でにっこりと笑っていた。
嬉しい、と思った。
痛めつけられた身体のあちこちは変わらず痛みを訴えてくるが、そんな事は気にならないくらい心が浮き立っていた。小さく口笛――というより、微かに息が洩れているだけのようなものであったが――を吹きながら、村へと戻っていく。
そこに待ち受けていた無慈悲な運命のことなど知る由もなく。
痛む身体を引きずるようにして、りんは懸命に走っていた。
急激な運動のせいで酷使された肺腑が限界を訴えてくる。息苦しさと全身に走る痛みに目の前が真っ赤になるような錯覚を覚えながらも、りんは必死で足を動かしていた。
背後から、複数の獣の荒い息遣いが聞こえてくる。
つい先刻、村人達を食い殺していた狼の群れの数頭だった。
獣の足をもってすれば、怪我をした童女の足に追いつく事など容易い事であろうに、あえてすぐに襲い掛かる事をしないのは、明らかに獲物を追い詰める事を楽しんでいるからだった。
だがりんにそんな事が判る筈もない。
限界まで酷使された身体には既に感覚もなく、頭の中は恐怖で真っ白になっていた。どうしてこんな事に、と己に降りかかった不運を嘆く余地もないほどにりんは追い詰められていたのだ。
ただただ原始的な生存本能に突き動かされるまま、必死で動かしていた足が木の根に躓いた。
身体が不自然にぐらついたその瞬間、思わず振り向いたりんの眼に最後に映ったのは、牙を剥き出して襲い掛かってくる狼たちの姿であった。
とくん
何の音だろう?
とくん
頭がぼんやりして、うまくものが考えられない。
とくん
自分は、死んだはずなのに――
とくん
何か、ふわふわとしたものが頬に当たっている。
何か、とても力強いものが自分の身体を支えている。
それが何であるのか知りたいと思った瞬間、りんの瞼は開いていた。
「……」
か細い吐息が薄く開いた唇から洩れる。
視界はまだぼんやりとしていてはっきりとしないが、自分の側にあの白銀の獣がいる事だけは何故か認識できた。
それとほぼ同時に、りんの五感は一気に鮮明になった。
森と土のにおいに混じって濃厚な血の臭いが鼻をつく。
ひんやりとした夜気とふわふわとした不思議な感触が頬を撫でていく。
力強く、温かい腕が自分の身体を支えている。
木々のざわめきに混じって何やら甲高い声が聞こえてくる。
そして――身体の中で、しっかりと脈打つ命の鼓動を、全身でりんは感じ取っていた。
ぼんやりとしていた視界が、徐々に明瞭なものになってくる。その中心にあの白銀の獣がいた。
冷たい光を湛えた金色の眼が無表情に自分を見下ろしているのを見つめ返した瞬間、りんは己が此岸へと引き戻されたことを悟ったのだった。
終
脱稿:2006.11.05
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2006/11/05 |
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